「MR+スーチャー」で「4WDターボ」のアウディに勝利! ランチア・ラリー037はWRCに放たれたレーシングカーだった (1/2ページ)

この記事をまとめると

■1982年に誕生したラリースペシャルがランチア・ラリー037だ

■アウディ・クワトロとは正反対となる方向性、軽量で高出力のミッドシップカーとして開発

■ロードバージョンの運動性能も名だたるスーパースポーツカーを軽く凌駕するものであった

軽量・高バランス・高出力・ミッドシップのピュアスポーツ

 1982年はモータースポーツ界にとって一大転機となった年だった。競技車両の区分が、それまでのグループ1〜9からグループN、A〜Eに変更され、同時に車両規定も一新されたからだ。とくに目立って大きな変更を受けたのはラリーカーが区分されるカテゴリーで、それまでのグループ2/4規定からグループB/A/N規定に変更された。これはグループ2/4規定時のラリーカーが過度の改造競争に陥り、参戦するメーカーがごく特定少数に限られてしまったことに起因するものだった。

 自動車メーカーに参戦の門戸を広く構え、なおかつ車両の保有性能を明確に設定しようというのがその狙いで、もっとも性能の高いクラスをグループBとして規定した。このグループBカテゴリーは、別名「ラリースペシャル」とも呼ばれたクラス。同じ仕様の車両を規定台数生産すればラリーへの参加を認めるとしたもので、市販車をベースに特殊な改造を積み重ねたグループ4規定より効果的に高性能ラリーカーが準備できることを意味していた。

 さて、このグループ2/4規定、とくに最上位性能のグループ4車両からグループB車両への移行期に台頭を見せたのがアウディ・クワトロだった。当時のWRCは、現在と同じくグラベル型ラリーを主体に少数のターマック型ラリーが混在する設定だったが、すでに低μ路で4WD方式の優位性は証明され、さらに4WD方式の強力なトラクション性能を最大限活用する高出力/大トルクの過給機付きエンジンが着目されていた。これを具体化したモデルがアウディ・クワトロだったが、当時はまだセンターデフを持たない4WD方式だったため、ツイスティなコース設定や高μ路を苦手とする傾向があった。

 一方、歴史的にラリーに積極的な取り組みを見せていたのがイタリアメーカーだった。そのうちのひとつ、ランチアも戦前からモータースポーツに取り組み、戦後の1960年代にはFFのフルビアHFを擁してラリーで活躍。

 その後ベルトーネのデザイン習作だったストラトスHFゼロをベースに、ラリーで使える2.4リッターのフェラーリV6をミッドマウントするストラトスを開発。1974年のWRCに投入すると1976年まで3年連続でWRCタイトルを獲得する活躍を見せた。

 1977年以降はグループ企業のフィアットがWRC参戦を受け持つことになり、131アバルトで1977、1978年と2年連続でWRCタイトルを獲得。

 メカニズムの発展・確立、そしてグループB規定への移行期に、ラリーフィールドで一躍存在感を示したアウディ・クワトロに対し、ランチアはこれと正反対の方向性、軽量でバランスに優れた高出力のミッドシップカーであれば、アウディ・クワトロの4WDターボに対抗できる、と考えた。この結果として生まれた車両がランチア・ラリー037だった。

 ランチア・ラリー037は、2リッター(最終仕様は2.1リッター)DOHCにスーパーチャージャーを装着。低μ路での車両コントロール性を重要視し、ラグの発生、出力/トルクの発生に変化のあるターボではなく、スロットルレスポンス、パワーリニアリティに優れたスーパーチャージャーを採用していたのもアウディ・クワトロとは対照的だった。


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