決断力の速さが企業の成長や長年愛される車種を生んだ
スズキの鈴木 修さんが代表取締役から退任、相談役へと勇退をした。銀行勤務から鈴木家の娘婿としてスズキに入社したのが1958年(28歳)、創業家として社長に就任したのが1978年(48歳)。以来、社長、会長と役職を変えながら、しかし代表取締役としてスズキをけん引してきたカリスマ経営者がついに第一線から退いた。
これほど長い間、経営者として活躍し、またスズキの売上高を3000億円規模から3.5兆円規模まで成長させた不出世のビジネスパーソンだ。そんな鈴木 修さんの功績といえば、やはりスズキをグローバル企業に育てたことにある。
よく知られているのがインドへの進出だ。
インド政府が国民車構想のパートナーを募集している情報に、鈴木社長(当時)自らが反応、トップ交渉によってパートナーとして認められたというのは、まさに氏の情熱によるところ。そうしてインドへの進出が決まったのが1982年。ちょうど鈴木 修さんが社長になって3~4年である。これだけの話を決めたというのは、まさに直感経営の原動力となっている「勘ピューター」のなせるワザだった。
その後、ハンガリーにも進出するが、いずれも「小さな市場でもいいから1番になりたい」という鈴木 修さんの思いが、そうしたプロジェクトを推し進めた。かつて「2番じゃダメなんですか」というフレーズも流行ったが、シェアトップを取ることが生き残るには重要という哲学を、鈴木 修さんは持っていた。
とはいえ、1981年にGM(ゼネラルモーターズ)と提携した際に「蚊は鯨に飲み込まれない。いざというときには空高く飛んでいくことができます」と発言したように、世界一大きな中小企業として決断のスピードを早め、華麗なステップを踏んでいくのもスズキの強みだ。そうした企業哲学はすなわち鈴木 修さんの経営哲学そのものだった。
さて、銀行出身の娘婿として鈴木家に入り、創業家としてスズキを盛り立ててきたという大筋を聞くと、鈴木 修さんにクルマやバイクが好きでスズキに入社したわけではないと思うかもしれない。だが、鈴木 修さんの嗅覚は自動車作りにも役立っている。
その最たる例といえるのが、1960年代の東京駐在時代に、ホープ自動車から4輪駆動の軽自動車「ホープスターON」の製造権を買い取ったことだろう。SUVという言葉も、RVという言葉もなかった時代に、4輪駆動の軽自動車の商品性を感じていたのだ。言わずもがな、ホープスターのスズキ版として生まれたのが初代ジムニーである。いまやバックオーダーを抱えて納車は一年後と言われるほど安定した人気を誇るジムニーは、鈴木 修さんの勘ピューターなくして存在しなかったのだ。