カッコイイクルマには女子も憧れた
70年代、80年代は、若者にとってクルマは憧れの的であり、ちょっとしたクルマに乗っているということは、それなりのステータスになりえた。今で言えば、最新のiPhoneの最上級機種を手に持って歩いているようなものだ。それがガイシャならなおさらである。1987年はガイシャの登録台数が9万7750台と、86年の6万8357台から一気に加速した年。空前のガイシャブームが訪れたのである。
ボクが青春を謳歌していた当時のデートもまた、クルマが必須だった。東京人なら、ナビなどないので助手席の彼女に地図とにらめっこしてもらいながら、カセットテープに録音したユーミンを聞きつつ、湘南や山中湖にドライブするのが最上のドライブデートであり、クルマで移動すること、2人が密な車内で過ごすことそのものがデートだったのである。だから、モテる男はクルマを所有していることが大きな条件、それがステータスだったというわけだ。
時を戻そう。70年代後半、ボクはG・ジウジアーロ作のいすゞ117クーペに乗っていたのだが、ある日、友人の家に向かって都内を走っていた時、信号待ちで前のクルマの女性とルームミラー越しに、目が合った。けっこう可愛いではないか(多分)。次の信号待ちでも、しっかり目が合った。知り合いかも、とも思ったが、そうでもない。で、若気の至り、勢いで、3つ目の信号待ちで動いた。そう、ボクがクルマから下り、前のクルマの女の子に声をかけたのだ。
口実はこうだ。相手のナンバー(練馬)から推測し、道を知らないフリをして、とっさのアイディアで、練馬の桜台への行き方を聞いた。本心は、ズバリ、ナンパである。今なら道を教えてもらって、それで終わるところが、そのアグネス・ラム似の女の子、「117クーペに憧れていたので、見ていたんです」ときた。「では、今度、117クーペでドライブに行きましょう……」とボク。話は瞬時にまとまり、自宅の黒電話の電話番号を交換し、じつに、その後数年間、付き合うことになったのである。イタリアンテイストあるG・ジウジアーロ作の117クーペは、ちょっとしたステータスがあったのかも知れない。
当時の日本のモータリゼーションはほのぼのとしていて、同じ車種とすれ違うだけで手を挙げて挨拶し、地方で同じ区域のナンバープレートのクルマと会うだけで、話が盛り上がるような時代だった。また、117クーペのような国産車でも、その流麗なスタイルから、女の子の憧れの対象になっていたということなのである。今、たとえばマツダMX-30が好きな女の子がいたとして、それに乗っている男がいきなり信号待ちで下りてきて話しかけられたら、危険を感じるだけだろう。昭和とは、そんな平和で安全な時代でもあったのだ。
時は80年代。輸入車専門誌の編集部にいたボクは、バブルに乗じて、六本木のカローラと呼ばれていた真っ赤なBMW3シリーズ(325i)に乗っていた。
ある夜、友達と会うために青山通りにある業界人の来訪も多いブラッスリーの前にクルマを止めると、すぐ前に、漆黒のメルセデスベンツ190Eが停まっていた。個人的にかなり興味があり、いや、自分のBMWよりカッコ良く見えて、190Eのまわりをジロジロと一周。そこへ、ブラッスリーから全身黒ずくめの美女が出てきて、「それ、あたしのクルマなんですけど」と声をかけられた。怪しい人と思われたくないので、正直に、「ボクはすぐ後ろのBMWに乗っているんだけど、この190Eに興味があって、見させてもらっていたところです、すいません」と白状。
ここからが驚愕の展開で、彼女いわく、「私は、本当はこの色のBMWが欲しかったんだけど、販売店(注:ヤナセという意味)とのお付き合いでコレにしちゃったの」ときた。さらに彼女から、「来週の同じ夜、ここで待ち合わせて、クルマ、交換しない?」と、妖しい提案までされたのである(実話です)。
今ならとんでもないことだけど、まだ30歳そこそこの(彼女はずっと年上の赤坂の宝石商だった)の若造は、190Eと妙齢の美女の魅力に敵うはずもなく、あっさり承諾。そして翌週以降、お友達になったという、バブルがもたらしたおとぎ話なのである。翌週の夜は、ブラック&レッドの2台で横浜へナイトクルージング。スリリングでもあった、今でも忘れられない甘い思い出である。これも、そこそこのステータスある(当時として)ガイシャのオーナー同士だったからこそ、あり得た話かも知れない。
1987年、BMW3シリーズからいきなりマセラティ・ビターボに乗り換えたボクは、ある意味、暗黒の時代を過ごすことになった。