日本メーカーはオーストラリアのラリーに注目し続々参戦!
第二次世界大戦で敗戦後、日本を支えたのは自動車産業だった。そこで、各メーカーが目を付けたのは、一般公道を使うラリー競技だった。中でも、オーストラリアへの注目度が高まり国内から多くのメーカーが参戦を始めた。
メーカーにとって、自社製品の耐久テストをすると同時に、好成績を収めることでブランドイメージを高めることが期待され、海外進出にも力が入っていた。50年代後半…もはや戦後ではないと言われ始めた頃、オーストラリア大陸を一周するモービル・ガス・トライアルがあり、これにトヨタと日産が相次いで参戦。
1957 Toyopet Crown DeLuxe Type RS10 Australia Mobile-gas Trial“Around Australia”Spec.(Replica)国産車のラリー事始めは初代クラウンから
1957年(昭和32年)に国産車として初めて、海外ラリーに参戦したのがトヨタのクラウン。まだトヨペット・クラウンを名乗っていた初代RS10型の4ドアセダンでエンジンは、プッシュロッド式1.5リッター直4のR型を搭載していた。
ちなみに、1.5リッターと言うのは当時の小型車枠一杯の排気量だった。競技はメルボルンをスタートし、オーストラリア大陸を1周するものだが、特に後半部分は内陸部の悪路を走るセクションも多く、現代のスピードラリーに馴染んだ目からは、ラリーと言うよりもラリーレイドに近い、言わばクルマによる耐久マラソン。
全走行距離は17万kmにも及んだが、それを19日間で走破すると言うタフなものだった。サービス体制などないに等しく、参加した近藤幸次郎と神之村邦夫の2人が総てのトラブルを自ら修理して走り続け、全102台の参加車の中で半数がリタイアする中、47位で走りきっている。写真はレプリカで2015年にトヨタのイベントで撮影。
1958 Datsun 1000 Passenger-cars Type 210“Fuji-go”Australia Mobile-gas Trial A-class winner 悪路に強いダットサンを印象付けた210
前年のトヨタに続いて1958年には日産が、オーストラリア1周ラリーに挑戦した。使用した車両はダットサン1000。ダットサン(日産)としては初の量産乗用車として人気を博していた初代モデル110系の後継として57年に登場したモデルが210系のダットサン1000。
その名の通り、排気量1000ccのプッシュロッド直4エンジンを搭載していた。当時、日産は対米輸出を計画しており、耐久テストに加えてダットサンのブランドイメージを高めるべく難波靖治/奥山一明/G.ウィルキンソン組と大家義胤/三縄米吉/A.ギボンス組の2台が出場。No.19の難波組が駆った赤い車両が“富士号”、No.16の大家組に託された白い車両には“桜号”のマスコットネームが与えられていた。
小排気量ながら快足を見せた2台は“富士号”が1000cc以下の車両によるAクラスのトップで走りぬき、“桜号”もクラス4位入賞を果たしている。なお、あまりにも苛酷過ぎたことで、この競技はこの年を限りに開催されなくなっている。2台ともに座間にある日産ヘリテージコレクションにて撮影。
1967 Mitsubishi Colt 1000F the First Southern Cross Rally F-class winner
ラリーの三菱の先駆けとなったコルト
1958年限りで開催されなくなったオーストラリア1周ラリーに代わり、1966年には新たなラリー・イベント…寄り競技性を高めたヨーロッパタイプのスピードラリーが開催されるようになった。これがサザンクロスラリー。
開催2年目となった67年には日本のメーカーとして初めて、三菱自動車が、まだ三菱自動車工業が発足する以前の三菱重工業時代に挑戦を開始している。主戦マシンに選ばれたのはコルト1000F。3ボックスのセダンが一般的だった当時としては珍しい、ファストバック・スタイルの小型乗用車として65年に発売されたコルト800をベースに、排気量800ccの2ストローク3気筒エンジンを、コルト1000に搭載されていた排気量1000ccで直4・プッシュロッドのK43エンジンに載せ替えたもの。
コルト800のオーストラリアへの輸出を前に、現地ディーラーからの出場要請に応えたものだが、海外ラリー初参戦ながら水島製作所と京都製作所を挙げての強力な体制で開発したマシンは、コロン・ボンドとダグ・スチュワートらドライバーの頑張りもあり、ボンドが総合4位/1000cc以下のクラスで優勝を果たすとともにスチュワートも6位入賞を果たしている。この個体が現存するかは不明。岡崎の三菱オートギャラリーにも収蔵されてなく、広報写真で掲載(協力・三菱自動車工業広報部)。