過激さを増していったグループB時代のラリーカー(1983-86年) part.1
ミドシップ4WDのマシンがグループBスタンダードに
ルネ・ボネ/マトラがジェットで先鞭をつけ、M530では実際にラリーフィールドにも持ち込んでいたミッドシップの後輪駆動=MRレイアウトは、その後ランチャがストラトスで圧倒的なアドバンテージを証明しいた。そこで、当のランチアは後継モデルとなる037ラリーを投入したが、その一方でアウディが先鞭をつけたAWD=全輪駆動の優位性も捨て難かった。だから必然的にMRとAWDを併せ持つことが、グループBによるラリーでは必須条件となっていく。その多くは前輪駆動のエンジンとミッションをキャビンの後部に移し、さらに駆動系にセンターデフとプロペラシャフトを追加、前輪をも駆動するよう改造されラリーマシンに変身していた。
速いマシンは美しく映るが、最初から美しくて速かった
1983_Lancia Rally 037 Martini Works-machine
ストラトスに替わる戦略車、グループBラリーカーとして開発されたクルマがランチャ・ラリー037。ベースとなったのはランチア・ベータ・モンテカルロで、キャビン部分のメインモノコックを流用し、前後に鋼で組んだスペースフレームを追加した、まるでレースマシンのようなパッケージとなった。またベータ・モンテカルロと同様にピニンファリーナがボディデザインを担当、流麗なルックスも特徴。シャシーはジャン-パオロ・ダラーラが担当し、彼のファクトリーであるダラーラで生産されていた。エンジンは、1960年代から熟成されてきた、通称「ランプレディ・ユニット」と呼ばれるツインカムを搭載、82年のツール・ド・コルスでデビューし、マルク・アレンが9位入賞している。
本格参戦となった83年には5勝を挙げてメイクスタイトルを獲得。翌84年はターマックのコルスで1勝しただけにとどまりランキング2位。85年には未勝利のまま最終戦で後継のデルタS4に交代した。深紅のストラダーレはイタリア北部、ロマーノ・デッツェリーノにあるルイジ・ボンファンティ自動車博物館で、マルティニ・カラーの映える83年のサファリ仕様は、やはりイタリアはトリノにある国立自動車博物館で開催されたマルティニの150周年記念の企画展『マルティニ・レーシング展』にて撮影した。
FWDのスーパーミニからMRのスーパーマシンに大変貌
1983 Renault 5 Turbo“Tour de Corse”
1972年に発売された前輪駆動のコンパクトカー、ルノー5(サンク)をベースに、エンジン+ミッションをキャビン後方に搭載したクルマがルノー5ターボ。コンパクトカーのトレンドとなっていた前輪駆動を採用していたが、ルノー5のパッケージングはアクスル上のミッション後方にエンジンが縦置きに搭載される、いわゆるフロントミッドシップと呼ばれる特徴的なものだったから、これを180度回転させてボディ後部に搭載することで、縦置きのMRパッケージが完成、すぐにグループBのホモロゲーションを取得している。グループBのホモロゲーションモデルだがベースモデルとなったルノー5のクリーンなシルエットはそのままに、前後にオーバーフェンダーを装着、愛らしさの中に獰猛なイメージも醸し出されるルックスとなっている。WRCでは81年シーズンの開幕戦となったモンテカルロで初優勝。
82年のツール・ド・コルスと86年のポルトガルでも優勝し、さらに85年のツール・ド・コルスでは発展モデルのルノー5マキシターボが優勝を飾っている。深紅の5ターボ・ロードゴーイングはフランス北西部、ロエアックのマノワール自動車博物館で2012年に撮影。一方、マスタードイエローのWRCマシンはミュルーズの国立自動車博物館で10年に撮影した83年のツール・ド・コルス仕様。
メーカーの合従連衡の波に呑まれた悲運のマシン
1983 Talbot Horizon Groupe B
20世紀初頭に設立された、フランスのクレメント・バイヤード車の輸入会社を起源とする長い歴史を持ったタルボ・ブランドは、第二次世界大戦前後に様々な紆余曲折から所有権が二転三転。1958年にはシムカに買収されたが、67年にはシムカそのものがクライスラーに買収されてクライスラー・フランス傘下に。さらに78年にはシトロエンに買収され、現在ではPSAがブランドを保有している。オリゾン…英名でホライズンはクライスラー・フランス時代の77年に投入されたコンパクトカーで翌78年にはクライスラー・オリゾンからタルボ・オリゾン…英名はタルボット・ホライズンに名称変更されている。タルボ・オリゾンのグループBプロジェクトは80年代に入ってから。当初はオリジナルのFRをMRにコンバートしたものがトライされていたが、アウディ・クアトロの活躍からAWDが必須と判断されMR+AWDのパッケージがトライされることになった。
しかしPSA傘下となりラリー活動もプジョー・スポールが主導、84年に登場するプジョー205ターボ16に一本化され、結局プロトタイプのまま実戦デビューを果たすことなくお蔵入りとなった悲運のマシンだ。ベースモデルのオリゾンGLSとグループBの試作モデルともにパリ郊外のアヴァンチュール・オートコレクション・ポワシーで撮影。
グループBマシンの代名詞的存在となったスーパーマシンの真打
1984 Peugeot Type 205 Turbo 16
MR+AWD、そしてターボエンジンが必須となったグループBによるWRCで、まさに真打ちとして1984年に登場した最強マシンがプジョー205ターボ16だ。市販モデルのプジョー205とは全くの別物で、モノコックフレームを持っているものの、キャビン後方はパイプフレームで強化されるスタイルで、後期モデルではそこがパイプフレームのみで構成されていた。ターボで武装した直4エンジンをコクピット背後に横置きに搭載。ターボ係数をかけても車両最低重量が900kgと規定された2.5リッタークラスに編入されるよう排気量は1775ccとされている。84年のツール・ド・コルスでデビューを果たし、3戦目となる第9戦の1000湖で初優勝を飾ると、第10戦のサンレモ、第12戦(最終戦)のRACと3戦で3連勝。メイクスで3位になるとともに3勝を挙げたアリ・バタネンもランキング4位につけている。翌85年シーズンは、11戦7勝でメイクスタイトルに輝くとともに5勝を挙げたティモ・サロネンが戴冠。続く86年にも9戦6勝3勝を挙げてメイクス2連覇を果たすとともにドライバー部門でもユハ・カンクネンが王座に就いている。ロードモデルはパリ郊外のアヴァンチュール・オートコレクション・ポワシーで、ワークスカラーの84年仕様はフランス東部ソショーのプジョー歴史博物館で撮影。