この記事をまとめると
■1992年発売の「F1」よりもはるか昔からマクラーレンはロードカー販売を模索していた
■マクラーレン「M6GT」は同社初のロードカーとなる予定だった
■ブルース・マクラーレンの事故死により4台の開発車両を残して市販計画は白紙となった
マクラーレン初のロードカーとなる予定だったM6GT
マクラーレンのロードカーといえば、その始まりとなるのはスーパースポーツの「F1」と考えたくなるところだが、じつはこのF1よりもさらに20年以上も前に、同社はレーシングカーに直結したロードカーの開発を計画していた。
当時はまだマクラーレンの創業者であった、ブルース・マクラーレンが存命だった時代。レースの世界においてマクラーレンは、グループ7やフォーミュラに集中する体制を整えていたが、そこに新たに加えられたのが、年間に50台の生産を行うことで公認が可能となった、グループ4カテゴリーによるスポーツカー選手権だった。
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そこにはフェラーリやポルシェ、アルファロメオといったメーカーが続々とエントリーを発表し、さらにはそれまでの3リッターから5リッターへとエンジン排気量規定が拡大されたことで、フォードやローラなどのアメリカンメーカーが復活を遂げる直接の理由となったカテゴリーでもあった。
ブルース・マクラーレンは当初、それに対抗するためのマシン、M6GTを年間で250台生産する計画を立て、それを実現するための体制作りにトライした。この数字がクリアできれば、グループ4のみならず、グループ3の公認を得ることも可能になるという考えからだ。
マクラーレンM6GTのフロントスタイリング画像はこちら
しかしながら、ここでマクラーレンは大きな問題に直面する。あくまでもレーシングカーコンストラクターに過ぎなかった当時のマクラーレンの仕事といえるのはシャシーの設計と生産のみであり、エンジンの調達に関してはまったく白紙の段階からそれを検討しなければならなかったのだ。
あえてわずかなつながりがあるとするならば、それはレーシングカーのM6に搭載されていたシボレー製のスモール・ブロックV8にほかならなかったわけだが、ここでM6GTのプロジェクトそのものに大きな影響を与える事故が起きる。1970年用のCan-Amマシン、M8Dのテスト中に起きたクラッシュ事故により、ブルース・マクラーレンがわずか32歳という若さで命を落としてしまったのだ。
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それを直接の理由に、彼の夢でもあったM6GT計画は事実上無期限停止という選択が余儀なくされることになる。マクラーレン、正確にはブルース・マクラーレン・モーターレーシング社は、レース活動の継続に、より大きな力を注がなければならなくなったからだ。
結局、マクラーレンが製作したM6GTは4台のみで、そのなかで「OBH500H」のライセンスナンバーを掲げたものは、ブルース・マクラーレンが日常的にそれを使用し、かつさまざまなテストに用いられたプロトタイプとして知られている。
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ちなみにこのモデルにはバーツ社がチューニングしたシボレー製のエンジンが搭載され、最高速ではじつに165マイル(約266km/h)、0-100マイル加速ではわずかに8秒を記録したという。
残りの3台は、いずれもトロージャンの手によって製作された量産プロトタイプで、その仕様は各車ごとに異なるため、正確なスペックは明らかにはされていない。そのなかの1台はレース・シーンにも姿を現しているが、特筆すべき戦績は記録されなかった。
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理想的な、そしてストイックに走りを追求したM6GTの誕生を自身の目で見ることが叶わなかったブルース・マクラーレン。その夢は1990年代に入り、あのF1ロードカーとして、またそれに続くP1、あるいは最新のW1に着実に受け継がれているのではないだろうか。