この記事をまとめると
■日産には「ラリーの日産」といわれるほどラリーに力を入れていた時代があった
■サファリラリーでの日産の活躍は象徴的であり石原裕次郎主演で映画化もされた
■パルサーGTi-RでのWRC参戦を最後に日産はラリー競技へのワークス活動を終えている
ラリーといえば日産というほど力を入れていた
世界で活躍した日本車のラリーカーというと、三菱のランエボ、スバルのインプレッサ、トヨタのセリカあたりを思い浮かべる人が多いだろう。しかしその昔、日産は「ラリーの日産」といわれるほど、ラリーに力を入れている時代があった。
その発端は、1958年に開催されたオーストラリア一周ラリー「1958 モービルガス・トライアル」。このラリーにダットサン1000 セダン(210型)を2台出場させたのが、日産の国際競技への初挑戦。結果はAクラス優勝。ドライバーのひとりは、のちにNISMOの初代社長となる難波靖治だった。2位も210型でワンツーフィニッシュを達成している。
1958年のオーストラリア一周ラリーに出場したダットサン1000 セダン(210型)画像はこちら
これを機に日産は、世界三大ラリーと呼ばれたモンテカルロラリー、シェル4000ラリー(カナダ)、そしてサファリラリーへ挑戦する方針を決め、1963年のサファリラリーに310ブルーバードと30セドリックでエントリー。
310ブルーバードは、前輪独立懸架をいち早く採用したモデルで、ボディもセミモノコック。大ヒットした初代ブルーバードだ。
日産ブルーバード(310)のフロントスタイリング画像はこちら
この年はいずれもリタイヤで終わっているが、この後、日産は継続的に国際ラリーに参加していくこととなる。
その翌年、1964年には410ブルーバード5台と31型セドリック4台をサファリで走らせ、セドリックが総合20位で完走。初代セドリックは、日産自動車初となるモノコックボディで、そのマイナーチェンジ版の31セドリックには、国産車初の3速ATも用意されていた。
そして1966年のサファリには410ブルーバードSSで参戦。クラス優勝を達成(総合でも5位、6位の快挙)。
1966年のサファリラリーに出場した日産ブルーバード(410)画像はこちら
完走したのは88台中わずか9台の過酷なラリーで、その奮戦ぶりはのちに映画化され、石原裕次郎主演の『栄光への5000キロ』として上映された。
1967年には、「新しい時代の新しいセダン」というキャッチフレーズで、大本命510ブルーバードが誕生。
サファリラリー仕様の日産ブルーバード(510)の走行写真画像はこちら
スーパーソニックライン(高速ジェット機のフォルムを受け継いだクサビ型のシャープなシルエット)が特徴で、BMWのようなストラット型前輪独立懸架、セミトレーリング型後輪独立懸架のサスペンションを備え、名車の名にふさわしい仕様で大ヒット。
サファリでも1996年にクラス優勝し、1.6リッターのL16型エンジンのツインキャブ仕様(100馬力)を積んだSSS(スリーエス=スーパースポーツセダン)は、1970年のサファリラリーでついに総合優勝! 日産はチーム優勝の栄冠も手に入れている。
日産ブルーバードSSS(510)のラリー走行写真画像はこちら
510ブルーバードには、このサファリでの優勝をモチーフにした「サファリブラウン」というボディカラーも用意された。