この記事をまとめると
■スポーツカーとスーパーカーの境い目について考察
■明確な定義は存在しない
■境目は「羨望」か「畏怖」かぐらいで構わない
スポーツカーとスーパーカーの境目は定義できない
希代のモータージャーナリスト、ポール・フレール(1917-2008)にいわせると「スポーツカーをあらゆる面で超越したのがスーパーカー」だとか。いくらか曖昧ではありますが、この続きには納得させられるものがあります。曰く「(スーパーカーは)よりハイレベルなドライビングテクニックが求められ、また狭くて暑苦しいコクピットをも厭わず、貯金残高もスポーツカーオーナーのそれをはるかに越えていなければならない」さすがの卓見といわざるを得ませんが、そもそもスポーツカーとスーパーカーの境目とはどこにあるのでしょうか。
まずはスポーツカーといっても、じつはクルマ好きの数だけ種類やセグメントがあるといっても過言ではないでしょう。ある方は「排気量は最低でも5リッターはほしいな」となり、一方では「いや、排気量は小さくとも構わないから、軽量かつミッドシップでないと」と唱えつつ「だいたいドライビングをスポーツとして捉えるなら、ホイールベースとトレッドの比率が〇〇でないと始まらないぜ」などと論争を生むことは明らか。
一般的にスポーツカーといえば「運転すること自体が楽しいクルマ」とされていますが、これまたクルマ好きにいわせれば「ウチの軽トラだって、凍った道を飛ばしたら超楽しいぜ」となるわけで(笑)、定義するのはじつに厄介なもの。
一方のスーパーカーを論じてみれば、さすがに軽トラは上がってこないものの「ポルシェ911はスーパーカーなのか」論争をはじめ、「フェラーリとランボルギーニ以外は認めない」といった原理主義も無視できない派閥を形成しているかと。ちなみに、911については製造元のポルシェが長い間「高性能GT」であるとしていますので「スーパーカーにあらず」と結論できますし、「F&L原理主義」に対してはケーニグセグやブガッティ、あるいはマクラーレンといった性能的にも両者をやすやすと凌駕するクルマも数多く存在するわけで、もはや主流派とは呼べなくなっていること、ご承知のとおりでしょう。
話はそれますが、スーパーカーの源流をたどれば必ずやフェラーリやランボルギーニに行き当たるわけで、上に挙げたメーカーのクルマにそうしたエッセンスが一滴でも含まれていないかといえば、それも当てはまらないという、じつに面倒なループが生まれてしまいそう(笑)。
こうして思いを馳せるうちに、筆者は第二次大戦中、ナチスで権勢をふるった宣伝相、ヨゼフ・ゲッベルスの言葉を思い出しました。「羨望と畏怖、いずれを求めるかによって根源が変わる」というもので、これぞスーパーカーとスポーツカーの境、決別点を求められるのではないかと。平たくいえば、ハナたらしたガキにそのクルマを見せて「カッケー!」と喜んだのなら「羨望のスポーツカー」であり、「スゲー!」と目を丸くしたのなら「畏怖を覚えるスーパーカー」てな具合。
クルマ好きの純粋無垢な目で見れば、鼻たれ小僧と同じく「羨望と畏怖」すなわちカッケーなのかスゲーなのかハッキリくっきり見えてくるのではないでしょうか。
ハハハ、くだらねー! と笑われてしまうのも仕方ありません。よくよく考えれば、スーパーカーとスポーツカーの境目からしてさほど高尚な題目でもないのです。我々クルマ好きは、せいぜい「カッケー!」か「スゲー!」という語彙さえ口にしていればスーパーカーとスポーツカーの区別ができる人種なのですから。