この記事をまとめると ■イタリアのピアッジオはベスパの名を冠したクルマ「ベスパ400」を販売していた
■ベスパ400は14馬力のエンジンを搭載するマイクロモビリティだった
■ベスパ400は安価なため壊れたら廃棄されることが多くスクーターに比べて現存率が低い
ベスパにはスクーターだけでなく四輪もあった クルマ大好き人間であっても、ベスパというスクーターを知らない方はいないはず。映画「ローマの休日」を引き合いに出すまでもなく、カッコいいスクーターのイメージリーダーといっても差し支えないでしょう。
ところが、そんなベスパの名を冠したクルマが存在したというのはさほど知られていません。しかも、イタリア製でなくフランス製とせざるを得なかったエピソードは、知る人ぞ知る涙モノ。スクーターに比べ、はるかに現存率が低いという悲運のマイクロカーをご紹介します。
ベスパ400のフロントスタイリング 画像はこちら
イタリアの二輪メーカー、ピアッジオ社がスクーターのベスパを発売したのは1946年のこと。鉄フレーム、2サイクルエンジン、数十におよぶモデルレンジを揃え、最終的には数百万台という破格のセールスを記録しています。
ピアッジオが初めて販売したベスパ 画像はこちら
そして、1950年代を迎えると、イタリアだけでなく世界的なマイクロカーブームが到来。雨が降っても濡れない、ふたりで乗っても荷物が積めるという便利マシンがスクーターよりほんの少し値段が高いだけ、しかも国によっては普通車より税金が安い! こんな理由でバカ売れし始めたわけです。
いい波に乗っていたピアッジオ社は「ウチもマイクロカーを作るのだ!」と張り切ったことはいうまでもありません。エンジンやボディの鉄板加工に関するノウハウ、そして生産設備もあるのですから、作らないほうがおかしいくらいです。
ベスパのファクトリー 画像はこちら
が、ここに思わぬ横やりが入りました。当時、イタリアで庶民向けのクルマについてはほぼ独占していたフィアットが、「イタリア国内でクルマを作ったらウチもスクーター作ってピアッジオをぶっ潰す」と脅しをかけてきたというのです。イタリア国内でのシェアを失いたくなかったフィアットは、輸入車には高い関税がかかる仕組みをかさにかけ、事実上ピアッジオの工場が使えないようごり押ししたというわけ。
ですが、涙をこらえていたピアッジオに救いの手を差し伸べたのは、ほかでもないフランスでベスパのノックダウン製造を担っていたACMA(Ateliers de construction de motocycles et d’automobiles)でした。ちなみにこのACMAは、当初20人ほどの職工だけで構成されていたごく小規模な生産拠点でしたが、1954年末には15万台ものベスパスクーターをロールアウトするほどに成長し、最終的には2000人を超える従業員がいたとか。また、第二次大戦当時はベスパに無反動砲を搭載したビックリドッキリメカまで作りあげています。