この記事をまとめると
■18年間のWRCワークス活動で75勝をあげたランチアの車種を振り返る
■過激なチューニングとルールの隙をつく戦略で連戦連勝であった
■デルタに関しては限定車を含め市販モデルも多数リリースされた
ランチアのラリーカーは誰もが認める名車揃い
ランチアのラはラリーの「ラ」、言い過ぎだとはいわせません。WRC(世界ラリー選手権)で75勝をあげているメイクスなんて、ほかにいませんからね。ワークス参戦していたのは1973~1991年までの18年で、フルヴィア、ストラトス、037、S4、そしてデルタの5モデルだけ。なのに、ラリーのラにまで上り詰める実力や執念は恐るべきもの。
とはいえ、インチキの噂も絶えずつきまとい、グループBを終焉に追い込んだ事故を起こすなど、とかくお騒がせメイクスなことには変わりありません。ちょっと歴史を振り返ってみましょう。
フルヴィアHF
1973年にFIAがWRCをスタートさせた際、ランチアが走らせたのは1.6リッターのV4エンジンをフロントに積んだFFマシン、フルヴィアHFでした。それ以前、インターナショナル・ラリー・チャンピオンシップだった頃には先代モデルと呼ぶべきフラミニア、フラヴィア・スポルト・ザガートなんてマシンを走らせていて、そこそこ好成績を残したものです。
ちなみに、中心的なドライバーはアルファコルセの名采配で有名なジョルジオ・ピアンタで、ラリー参戦後には037ラリーの開発にも携わっています。また、ワークス活動の監督は最近映画にまでなったチェーザレ・フィオリオ。彼はWRCのワークス活動が終わるまで、ずっとそのポジションに居続けたこと、ご承知のとおりです。
もっとも、1973年のWRCはアルピーヌA110の独壇場ともいえるシーズンで、フルヴィアは1勝もすることができずに終わっています。フルヴィアの名誉のために付け足せば、後にストラトスでモンテカルロを三連覇したサンドロ・ムナーリは、フルヴィアを駆ってチェックポイントの設営30分前に早着したというエピソードも残っています(残念ながら、早着で失格となっています)。
1973年の屈辱が、ランチアのラリー魂に火をつけたことは明白で、翌1974年には早くもストラトスを投入、フランス勢をケチョンケチョンに蹴散らしたのでした。
ストラトス
ちまたでよくいわれている「ベルトーネのコンセプトカー〈ストラトス〉と、ラリーで活躍したストラトスは名前が共通するだけで無関係」というのはまったくのデタラメではありませんが、事実とも違っています。というのも、フィオリオは1970年にベルトーネ・ストラトスがデビューした時点でフルヴィアの戦力に見切りを付けていて、ベルトーネはフィアット傘下となったランチアにストラトスを売り込みたかった、という両者の気持ちがシンクロした結果、ストラトスという名のロードカーが生まれることになったからです。
実際、ロードカーのデザインはベルトーネ(に在籍していたガンディーニ)が担っていますし、彼らが作ったプロトタイプは、早くも1972年にはラリーに参戦。フィアットやレーシングカーコンストラクターのダラーラも開発に加わり、本来であればWRCのスタートに間に合わせたかったのですが、グループ3の「連続する12カ月に5000台を生産したGT」には到底追いつかなかったのです。
で、フィオリオがグループ4の「連続する12カ月に400台の生産」というレギュレーションに目をつけ、これなら間に合うとホモロゲーションを取得。実際に400台が作られたかは神のみぞ知るところで、一説によればボディだけ400台分作って見せたとか、400台分の部品発注書をFIAに提出したとか、グレーな噂には絶えませんでした。
ちなみに、こうしたFIAを煙に巻くのはフィオリオの得意技で、参戦中も何度となくインチキがバレていました(笑)。
ミッドに横置きされたV6エンジンは、フェラーリやフィアットでも使用された2.4リッターユニットで、市販車用には12バルブのヘッドユニットを採用して240馬力、グループ4に使われたのが24バルブユニットで280馬力とも290馬力ともいわれています。
現代から見ればちゃちなスペックですが、1トンそこそこのミッドシップ車、ワイドなトレッドに対して超短いホイールベースが奏功し、ランチアはWRCで通算18勝、マニュファクチャラーズチャンピオンを3年連続でゲットしています。