自分で作ったほうがいいものが作れるというのが正しいと言われる
スーパーカー世代の方ならヨダレモノのランボルギーニ。比較的新しいメーカーであるというのはご存じだろう。そもそもスーパーカー作りを始めたのは、フェラーリへの怒りがきっかけだったという説もあったりする。実際のところは、かなり誇張されているようだが、真相はどうなのだろうか?
創業者のフェルッチオ・ランボルギーニが生まれたのは、1916年のこと。ボローニャ近郊の農家に生まれた。家で使っていた農業用の機械に興味を示すなど、メカへの興味は強いものがあった。さらに第二次世界大戦後には軍払い下げのトラクターを修理して販売。これで儲けて、自ら製造も行なうようになり、財産も築くことができた。同時期にボイラーとエアコンの会社も設立していて、商才もあったのだろう。
ちなみにトラクターの会社はランボルギーニ・トラットリーチ社で、こちらは契約トラブルで手放しているが、現在もランボルギーニのトラクターは販売されていて、デザインもジウジアーロが担当するなど、かなりトンガっていてイタリアンテイスト全開だ。エンブレムはもちろんクルマと同じ、ファイティングブル。日本でも正規輸入されていて、扱うのはあのコーンズである。お値段は2000万円ちょっとと、その世界ではとくに高いわけではない。
トラクターだけでなく、もちろんクルマも好きで、トラクター会社の直前にはチューニングショップを開いていたほど。自らチューニングした初代チンクエチェントで、ミッレ・ミリアにも参戦するなどしている。トラクターでひと財産築いたあと、さまざまなスポーツカーを集めるようになり、その中にはもちろんフェラーリも含まれていた。
このとき、エンジニアとしてフェラーリを見て、意外にレベルが低いことに憤り、改良の直談判をエンツォ・フェラーリのところへ行ったら門前払い。このときの怒りで自らスーパーカーを作ることを決意したというのが、冒頭に紹介した説だ。
実際は、この程度なら自分で作ったほうがより速くて、性能がいいものを作れると思い、自動車に進出したという程度だったようだ。
いずれにしろ、フェラーリに対抗すべく自らの自動車会社を立ち上げ、開発にはフェラーリを辞職したビッザリーニなどを迎えた。まずは3.5リッターのV12気筒を開発。360馬力を発揮するエンジンで、伸びやかなGTを得意としていたスカリオーネがデザインしたボディに搭載。
350GTVとして、1963年のトリノショーに出品したのが、自動車メーカーとしてのランボルギーニの第一歩だ。このクルマ、最高速度は280km/hで、これにはフェラーリも驚愕したというから、面目躍如だっただろう。
ただ、大いに話題になったものの、ランボルギーニ自身はフロントのデザインが気にくわなかったようで、途中で展示を中止してしまった。その後、市販版を別のカロッツェリアに依頼したものの、150台ぐらいが売れた時点でそこが倒産。これをきっかけに次なるミウラの開発が開始された。