丸3年をかけて独学でクルマを完成させる
1913年(大正2年)に福岡工業学校を卒業した矢野は、村上氏の「小型の純日本製自動車をつくるのであれば、いま一度資金を出そう」との申し出を受け、本格的に自動車研究と国産小型乗用車の研究開発に着手。
そして全長2.6mでホイールベース1.8m、水冷4サイクル2気筒、排気量1000cc、10馬力のエンジンを積んだ4人乗りの幌型車──つまりT型フォードを縮小したようなクルマの設計図を作成。数年後に出来上がるはずの純国産車の車名は、矢野の「矢」からアロー号と命名した。
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だが「すべて国産で行く」となると、当時の状況としては必然的に「すべてが手作り」ということになる。そのため矢野はシリンダーを鋳造で作り、ピストンリングも加工法を案出。ベアリングは極軟鋼材を切削加工して銅メッキを行い、味噌などを用いた手製の浸炭剤で浸炭焼入れして製作した。とはいえタイヤやプラグ、マグネットなどは、どうしても外国製品を使わざるを得なかったのだが。
そして1915年(大正4年)、ついにアロー号のシャシーが完成した。だが、なぜかエンジンの調子が出ない。各所をいろいろと調べても、原因をつかむことができなかった。
途方に暮れていた矢野のもとに、ひとつの情報が入った。
当時は第一次世界大戦の真っ最中で、福岡市内ではドイツ軍捕虜も多数収容されていた。そしてそのうちのひとりが、ベンツ社のエンジニアであることがわかったのだ。
矢野はさっそく陸軍にかけあい、そのドイツ人捕虜に──従軍前はベンツ社のエンジニアだったハルティン・ブッシュ氏に、アロー号を見てもらった。
アロー号の各部を詳細に見たブッシュ氏は「このクルマの調子が出ない理由は“キャブレターの不具合”だ。英国・ゼニス社製のキャブに交換すれば動くようになる。そしてそのキャブは上海で入手可能である」と、矢野に販売店まで紹介してくれた。
矢野はさっそく上海に渡り、捕虜のハルティン・ブッシュ氏が指定した店でキャブレターを購入。それをアロー号に装着してみると──エンジンは快調に動きはじめた。
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その後はボディ製作も開始。できるだけ軽量にするため、矢野は名古屋特産の「一閑張り」をヒントにボディ表面には薄いアルミ板を張り、その下に和紙を張る「張り子」というユニークな構造を発案した。
そして1916年(大正5年)8月24日、ほぼ純国産の4人乗り小型乗用車「アロー号」は完成した。矢野倖一はこのとき、満24歳になる寸前の弱冠23歳。計画開始から丸3年が経過していた。
アロー号は完成後、営業用自動車として2年ほど使用されたあと、ナンバーを返上して現在に至っている。その後の矢野倖一は特殊車両やダンプカー製造の注文に追われながらも「国産小型乗用車を製造する」という夢を断念することなく、1924年(大正13年)には空冷と水冷のV8OHVエンジンを完成させている。
そしてそれを量産化する計画を抱いていたが、小型自動車の度重なる法規変更と、 「矢野オート工場」の仕事に追われたことなどにより、残念ながら夢は叶わなかった。
しかしアロー号はいまも、矢野の長男・羊祐氏や孫・彰一氏、俊宏氏ら関係者の手によって完成当時の姿そのままに保存され、日本の産業発展に多大な貢献をした「機械遺産」として、 福岡市早良区の福岡市博物館に常設展示されている。
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