ユニークな感性でスズキを成功に導くだけでなく人柄も愛された
日本でいえば、1993年に軽自動車のハイトワゴンという新カテゴリーを生み出した「ワゴンR」の名付け親としても知られている。ワゴンRは、じつはもともとは別の車名で開発が進んでいた。しかし、アルトを主力としていたスズキのラインアップにハイトワゴンが加わることを「ワゴンもあーる」でいいじゃないか、との修さんの鶴のひと声で、ワゴンRという車名に急遽変更されたと都市伝説的に伝わっている。
それにしても、このネーミングがワゴンRの爆発的ヒットにつながったであろうことは、“勘ピュータ”と呼ばれた修さんの経営判断力を示す最強のエピソードだろう。
そうした豊かでユニークな感性はメディアの間でも好評だった。
筆者自身は記者会見後のカコミ取材で修さんの肉声を聞いたことがある程度だが、誰もが直感的に理解できるような平易に表現しつう、ユーモアを交えた発言に、記者が笑ってしまうこともしばしばだった。メッセージを伝えるのが非常にうまい経営者という印象が強い。
葬儀において喪主を務めた鈴木俊宏氏は修さんの長男であり、創業家出身の代表取締役社長でもあるが、修さんが記者会見などで見せていたフレンドリーでユーモラスな部分は、俊宏社長もしっかりと受け継いでいるのが感じられる。
軽自動車と登録車をあわせた日本国内での新車販売においては2位が定位置となるまでスズキを育て上げた修さんだが、それでも「うちは中小企業だから」といって、攻める姿勢を大事にしていた。そうした精神は、修さんが亡くなってからもスズキの根幹として大事にされていくことだろう。