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群馬県と福島県は隣接しているのにクルマでの往来不可ってマジか! 車道が存在しない理由は「宝」を守るためだった

群馬県と福島県は隣接しているのにクルマでの往来不可ってマジか! 車道が存在しない理由は「宝」を守るためだった

この記事をまとめると

■群馬県と福島県は隣接しているのにクルマで直接に往来することはできない

■以前は両県をつなぐ道路計画があったが昭和46年に建設を断念した

■道路を通すことよりも尾瀬の自然を守ることのほうが公益性が高いという判断だった

尾瀬の美しい自然のために道路計画が断念された

 漫才コンビ「U字工事」のネタによれば、栃木県と茨城県とは敵対関係にあるようだが(?)、当然ながら両県の県境には、何本ものクルマが走れる道路が通っている。そのため、住民らは友好的かつ普通に、両県をクルマで行き来している。また、埼玉県と山梨県との県境の長さはきわめて短いが、それでも国道140号「雁坂トンネル有料道路」を使えば、クルマによって両県を行き来することは可能だ。

 しかし、群馬県と福島県は隣接しているにもかかわらず、クルマで往来できる道路が1本も通っていない。そのためこの両県においては、相手方の県へクルマで行こうとした場合には必ず、栃木県または新潟県を経由しなければならないのだ。

 群馬県と福島県との県境である約17kmの区間にクルマが通れる道路が1本もない理由は、当然ながら「両県が古来から憎しみ合ってきたから」ではない。両県の県境には「尾瀬国立公園」があるというのが、その理由だ。

 法令上では「国道401号線」が福島県会津若松市と群馬県沼田市を結んでいることになっているが、実際には尾瀬を境に大きく分断されている。しかし、昭和30年代にはモータリゼーションの到来に伴い、群馬県片品村から尾瀬沼湖畔を通って福島県檜枝岐村に至る古い交易路「沼田街道」を拡幅整備し、国道401号(および重複区間である群馬県道1号)によって尾瀬にクルマをじゃんじゃん通すべしとの計画がもち上がった。そして実際に道路整備工事も開始された。

 だが結論として昭和46年、この道路計画は断念された。なぜならば、大正時代の後期に尾瀬ヶ原ダムの計画に激しく反対した平野長蔵の孫であり、長蔵の後を継いだ平野長英の子である平野長靖が昭和46年、発足間もない環境庁の初代長官・大石武一に建設中止を直訴し、大石がその意を汲んで「建設中止」を決断したからだ。

 尾瀬ヶ原ダム計画の反対運動を繰り広げた祖父・平野長蔵も自分で建てた山小屋に移り住み、冬の間は数メートルの雪に閉ざされる環境下で想像を絶する赤貧生活を送りながら、当時の内務大臣であった水野錬太郎に尾瀬沼と尾瀬ヶ原の貯水池計画を見直す嘆願書を提出するなどした、猛烈な意思をも持つ人物だった。

 孫の平野長靖も京都大学文学部を卒業後、いったんは北海道新聞に就職したが、弟の死によって27歳で長蔵小屋三代目を継いだ。そして、環境庁初代長官・大石武一の自宅へ赴き直訴したという、尾瀬の自然を猛烈に愛する人だった。

 そんな長晴の熱意にほだされた大石長官は現地を視察し、「尾瀬は国民の宝なり!」と賛同。すでに尾瀬湿原まで迫っていた道路の建設は中止された。この出来事はその後、各種の自然保護運動が全国に広がるきっかけにもなった。だが、平野長靖自身は正式な計画廃止決定を知ることなく、36歳の若さで、冬の尾瀬山中で凍死した。

 クルマが通れる道路というのは必要なものであり、また公益性が高いものでもある。そのため、「なんでもかんでも反対!」という類の住民運動には正直、辟易する部分もある。だが、群馬県と福島県の県境に関しては──つまり尾瀬については、道路を通すことよりも尾瀬の自然を守ることのほうが、公益性は圧倒的に高かったように思う。

 そのため個人的には、3代にわたり頑張ってくれた平野さんたちには感謝の念しかない。

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