M2ビルのその後
そんなM2ビル(現・東京メモリードホール)では、1991年12月1日のオープン時、M2プロジェクトの市販車第1弾である「M2 1001」の発表・展示・予約会を実施。そしてその後、初代マツダ・ロードスターをベースとする「M2 1002」や「M2 1028」に関しても、開発中の工程はM2ビルで報告され、エンドユーザーはM2の開発担当者と直接、意見交換をすることができた。
だが、その後の本格的な景気減速の煽りを受けてM2は継続困難となり、1995年4月にプロジェクトは中止に。そして、「売却されないように」とデザインされたM2ビルではあったが、結果として株式会社メモリードに売却され、現在では葬祭場になっている。
M2ビルおよびM2プロジェクトに関する当時の一連の流れを「はは、いかにもバブルだね。お疲れサン」的に笑う人がいることは知っている。そして、筆者の心のなかにも、そういった感情がゼロなわけではない。
だが、クルマに限らず、「なんらかのまったく新しいプロダクトやカルチャー」を作ろうとする際には、当時のマツダやM2参加メンバー、そして若き日の隈 研吾氏も志向した「破天荒さ」のようなエネルギーが絶対に必要なのではないか──とも思う。そして、そういった破天荒系のエネルギーが不足しているからこそ、「最近のニッポンはいまひとつ面白くないのではないか?」とも思うのだ。
それゆえ筆者は、M2ビルをバブルおよびポスト・バブル期における「笑える黒歴史」のひとつとして安直にあざ笑う気にはなれない。