この記事をまとめると
■赤と白のボディカラーのクルマは1960年代まで緊急車両と区別するため販売を禁止していた
■本田宗一郎氏がS360を赤にしたくて当時の運輸省に交渉して赤が解禁された
■1963年にホンダS500に赤が設定され日本初の赤いクルマとして市販された
赤いクルマに乗れるのはホンダのおかげ!?
スポーツカーを象徴するボディカラーといえばやっぱりレッド。フェラーリのロッソ・コルサ(Rosso Corsa=レーシングレッド)を筆頭に、アルファロメオやランボルギーニなど、イタリアンスーパーカー全般、そしてポルシェ、ミニなども赤が似合うし、国産車でもNSXやロードスター、カプチーノ、MR-2(SW20)、ランエボⅥのトミマキネンエディションなどは赤のイメージが強いし、マツダ車に関しては、ソウルレッドプレミアムメタリックがイメージカラーにもなっている。
赤いクルマに乗るのは目立つので、実際に購入する人は少ないが、赤いクルマにあこがれている人は多いはず。
そんな赤いボディカラー、じつは1960年代まで「消防車や救急車といった緊急車両と似ていて紛らわしい」というばかばかしい理由で、国内販売用のクルマのボディに赤や白を使うことはまかりならん、という法律があったのはご存じだろうか。
そこに風穴を開けたのが、ホンダの創業者、本田宗一郎。当時二輪メーカーだったホンダは、ちょうど四輪進出を目指していた時期で、スポーツカーのS360と軽トラックのT360の開発を進めていた。
本田宗一郎は、このS360のイメージカラーを赤にしたいと考え、「赤はデザインの基本となるものだ。それを法律で禁止するとは。世界の一流国で国家が色を独占している例など聞いたことがない!」とのコメントを大手新聞にコラムとして掲載!
並行して、運輸省(現在の国土交通省)と粘り強く交渉を重ね、赤色の使用許可を得ることに成功した(今では一番人気のあるボディカラー、「白」もこのとき解禁)。
最終的にS360は、第9回全日本自動車ショーに展示されただけで、市販化には至らなかったが、そのスケールアップ版のS500が1963年に発売され、日本初の赤いクルマが誕生。
以後、ホンダは「Honda Red」をコーポレートカラーとし、ロゴにも赤を使うなどいまでも大事にしている(ホンダ創立75年の2023年には、Honda Red色鉛筆が公式グッズに加わったほど)。
かつて、エンツォ・フェラーリが「子どもにクルマの絵を描かせてみれば、間違いなく赤い色のクルマを描くでしょう」といったほど、親しまれている赤いクルマ。それが国内で見かけられるようになったのは、じつは本田宗一郎のおかげだったと覚えておこう。