圧倒的性能でレースで勝ちまくった!
日産が本格的にCカーに参戦した当時、シャシーは英国のコンストラクター、マーチに発注し、日産製エンジンを搭載。1989年からはローラ社との共同開発でR89Cを作り、この年、日産本社からのちにR35GT-Rの開発責任者となる水野和敏がニスモに出向。グループCレースのチーム監督兼チーフエンジニアに就任する。シャシーも日産製になり、エンジンは900馬力オーバーの3.5リッターV8ツインターボのVRH35Zを搭載したR90CPを生み出す。
このR90CPで日産は初めてJSPCのタイトルを獲得。翌年は日産製カーボンモノコックボディに進化したR91CPに進化し、JSPCで2連覇を達成。
そして1992年、ついに究極のジャパニーズモンスター、R92CPが登場する。
クローズドボディのグランドエフェクトカーとなっており、空力特性はF1マシンよりもはるかに優れたレーシングカーで、ダウンフォースは3.5tにも達していた。
エンジンはル・マン仕様で1200馬力、JSPCではドライバビリティ重視で800馬力以上にリセッティングされたが、車重は850kg(以上)なので、パワーウェイトレシオはなんと約1kg/ps!
予選仕様のフルブーストで、予選用タイヤを装着して富士を走ると、最終コーナーを立ち上がり、コントロールラインを超えて、1コーナーが近づいてきてもまだ加速し続けて、トップスピードは400km/hを超えたという。
あまりの速さに、日産のエース、長谷見昌弘、星野一義も、「いったい何km/h出ているんだ!?」とメカニックに迫ったが(R92CPの車内にスピードメーターはついていない)、エンジニアは大台(400km/h)を超えているとはいえなくて、ドライバーが恐怖心を抱かないように「最高速度は380km/hです」といい張ったといわれている。
長谷見昌弘は、1992年の最終戦の予選が終わり、その恐怖から解放されたとき、「星野、お互いこのマシンで死ななくてよかったな」とその本音を吐露したほどのモンスターぶりだった……。
ただし、R92CPは扱いにくい「怪物」ではなく、ドライバーからは乗っていて疲れないマシンとして好評だった。これは耐久レース仕様のマシンとして重要な性能で、ドライバーファーストで設計された珍しいレーシングカーでもあった。
また、燃費の面でも効率を極め、レース中、ペースカーが入ったときの周回では、リッター16~17kmの燃費をマークするほど。肝心のレースでも、デビューレースの1992年の開幕戦、インターナショナル鈴鹿500kmから土つかずの6戦“全勝”。日産はJSPC3連覇を達した。
ちなみにこの1992年で、ターボエンジンのCカーの時代は終了。
翌年からは3.5リッターNAによる新グループC規定に移行するはずだったが、ニッサンは1992年をもって、Cカーレースから撤退。興隆を誇ったグループCカテゴリー自体が、1993年で消滅してしまった……。