最初のクルマは独自で研究して開発
現在のトヨタ自動車につながる自動車開発に取り組んだのは、豊田佐吉氏の長男である豊田喜一郎氏です。喜一郎氏は父が築いた豊田紡織に入社し紡織機械の技術者となりますが、紡織技術の視察のため欧米へ出張した際、そこで見たアメリカの自動車産業に強い衝撃を受け、自動車の時代がやってくると予感します。そして、ほぼゼロからの知識でクルマづくりに挑戦を始めました。
1930年、自動車の「心臓部」ともいえる小型エンジンの開発に着手し、これが国産自動車への挑戦の幕開けとなったのです。
さらに1933年には、製作所内に「自動車部」を設立。技術者たちは、実際のクルマを深く理解するためにGM社製のシボレーを購入し、徹底的に分解・調査を行いながら製造技術の研究を重ねました。こうして国産自動車への道が切り開かれていきました。
ここで驚いたのは、当時の最先端を行くアメリカなどから技術者を招くのではなく、自らの手で分解・再組立を繰り返しながら、自動車製造の技術を少しずつ吸収していった点。このように、喜一郎氏たちはゼロから新たな産業を生み出そうと奮闘したのだと、このエピソードを聞いて感じました。
現在、日本を代表する企業として成長したトヨタも、その基礎は創業期のこうした地道な努力に支えられているのだと、改めて感じます。
1934年、トヨタはエンジンの試作に取りかかりましたが、その道のりは険しいものでした。最初に、シボレー・セダンのエンジンをスケッチして作成した「A型エンジン」のシリンダーブロックとピストンを試作することになり、鋳造作業に苦戦の連続だったといいます。開発は5月に始まりましたが、8月までの短期間で500~600ものブロックが無駄になったそうです。それでも諦めず、ひたむきに試作を重ね続けていったのです。
その後の自動車開発は順風満帆とはいかず、さまざまな困難が立ちはだかりました。第二次世界大戦が始まると、若きトヨタの技術者たちも次々と戦地に赴くこととなり、さらには自動車製造が許可制になったことで、創業者・喜一郎氏の意に反してトラック製造を余儀なくされる状況になってしまったのです。
こうして製造された「G1型トラック」は当初、故障が相次ぎ、トラブルが発生するたびに技術者が現場に出向き、修理作業にあたりました。故障のたびに改善が加えられ、不具合対策は最終的に800件以上にも及んだといいます。こうして蓄積されたノウハウは、後のG1型トラックやA1型乗用車の改良型であるGAトラック、そしてAA型乗用車にも活かされていきました。
1938年11月3日には、トヨタの「拳母工場」が竣工し、設立されたトヨタ自動車工業の歴史を象徴する工場としての役割を担います。現在のトヨタ自動車の創立記念日がこの日であるのも、拳母工場を大切に思っていた喜一郎氏の思いの表れかもしれません。
「ジャスト・イン・タイム」という言葉を耳にしたことのある方も多いでしょうが、この生産方式の実践は、拳母工場から始まりました。「必要なものを、必要な時に、必要なだけ作ったり運んだりする」という考え方で、いまもトヨタの生産過程に受け継がれている手法です。
創業期の地道な努力の積み重ねが、いまのトヨタを築き上げていると感じました。残念ながら創業者は、現在のトヨタの成功を見ずにこの世を去られましたが、現在の会長である豊田章男氏は「創業者の苦労を忘れてはならない」とよく語られているそうです。いまもなお、その思いを受け継ぎながら成長し続けるトヨタには、筆者としても応援したくなる気もちを抑えられません。
今回訪れた「トヨタ産業技術記念館」は、トヨタの歴史を知る上で格好の場所であり、約100年前の煉瓦造りの工場建物が当時のまま残っているのも、見どころのひとつです。歴史の息吹を感じながら、ぜひ資料館を巡ってみてはいかがでしょうか。