ほかの販売店よりもプリンス店だけが突出していた理由とは!?
チェリー店は、日産初のFF車であるチェリーの登場に合わせてスタート。もともとは1965年に日産のグループ入りをした「愛知機械工業」の軽自動車コニーの販売店を受け継いだもので、その実質的な後継のパルサーに変わっても、販売店名はチェリーのまま残った。
最後にプリンス店。これは1966年に日産に吸収合併されたプリンス自動車工業の販売店をそのまま引き継いだもので、展開車種も当初はスカイラインやグロリアといったプリンス生まれのクルマのみであった。ほかのチャンネルと異なり、1986年までは全国のプリンス店を統括する「日産プリンス自動車販売」という会社が存在しており、これもプリンス自動車工業時代の流れをそのまま継承している。
1980年代後半までは、車両開発もプリンス自動車工業の拠点であった荻窪工場で行われており、吸収合併後も独自性が強いクルマが多く作られていた。販売店でも広報誌を配布したり、ケンメリ時代はアパレルも扱うなどほかのチャンネルと一線を画していた、その高い技術に惚れた旧プリンス時代の根強いファンの支持もあり、いまなおプリンス販売店の名前が数多く残っている。
販売店統合でディーラーごとの個性が失われていくのは寂しい
その後、販売店は1999年に日産店とモーター店が「ブルーステージ」、チェリー店、サティオ店、プリンス店は「レッドステージ」へと統合。そして、さらに車種の統廃合が進み、2007年にはブルーステージとレッドステージも一本化され、GT-Rを除くすべての車種が全国の販売店で購入できるようになった。
さらに、2018年には販売店をグローバル基準に統一する「ニッサン・リテール・コンセプト」に基づき、新世代店舗デザインに順次変更され、大都市圏を中心に販売会社の統合が進んでいる。事実、大阪は日産大阪販売のみとなった。
どこへいっても同じサービスが受けられるという点では望ましいことだが、ディーラーの個性が薄れていくことに対して一抹の寂しさを感じるのは私だけではないはずだ。