最後は南アフリカで謎の死を遂げた! ポルシェのチューナーとして世界に名を馳せた「ゲンバラ」とは (1/2ページ)

この記事をまとめると

ポルシェのチューナーとして一時代を築いた「ゲンバラ」

■ゲンバラが一躍脚光を浴びるようになったきっかけは1985年の「アバランシェ」だった

■アバランシェ以降もミラージュGTやアバランシェGTR650ミラージュなどの名車を生み出した

ポルシェ乗り憧れのチューナーだったゲンバラ

 ヒトと違ったモノがほしい、少しでも見栄の張れるモノならなおさらほしい。こうした欲求はラスコー洞窟の壁画にも描かれているとおり、太古の昔からヒトのDNAに刷り込まれているのでしょう。当然、この気もちに付け込んだ商売も盛んであり、さしずめ1980年代のスペシャルカービジネスなどは最たる例かと。なかでも、ゲンバラのような伝説的なチューナーは「誰も目にしたことがないクルマ」を作りあげると、欲求とそれに見合った財布をもっている人々がこぞって食いついたことはご承知のとおりです。

 それにしても、ゲンバラは不思議な魅力をもったチューナーです。24金メッキのホイールなど、決して趣味がいいとは思えないのに、なぜか心に残るクルマばかり。どんなチューナーだったか、振り返ってみましょう。

 そもそも、ゲンバラの創始者にしてデザイナーのウーヴェ・ゲンバラは、インテリアデザインが専門だったとされています。実際、1972年に興したのは「ゲンバラ・オートモビル・インテリア」と名乗り、主にフォルクスワーゲンの内装をアップグレードするのが主な仕事でした。これが評判を呼び、VWでなくポルシェをもちこむ客が増えたことから、1981年には「ゲンバラ・オートモビルテヒニク」へと社名を変更し、インテリアだけにとどまることなくチューンアップに手を染め始めたとのこと。

 もっとも、最初のうちはインテリアのアップグレード、すなわちレザーシートにパイピングを施したり、ダッシュボードにテレビを埋め込むなどがメイン。チューンといってもアイバッハのスプリングで車高を落としたり、せいぜいフロントスポイラーにランプを増設したりする程度。それでも、オリジナルの2ピースホイールを作って24金メッキにしたり、当時流行っていたNACAダクトを増設するなど徐々にゲンバラは個性を発揮しはじめたのでした。

 そして、1985年のジュネーブショーでお披露目した「アバランシェ」とそのカブリオレ「サイラス」の2モデルによって一躍脚光を浴びることになったのです。得意のインテリアはテレビや車載電話(しかもFAX付!)、ハイエンドオーディオといった装備に加え、シート、ダッシュ、そして天井まで水牛の革でコーディネートするなど、まさに贅を尽くしたもの。なかでもサイドミラーに埋め込まれたカメラでリヤビューをモニターできる仕組みはいまでこそ驚かないものの、当時は画期的アイディアともてはやされたものです。

 そして、アバランシェ(雪崩)という車名の由来とされる立体成型の大型リヤウイングや、911ターボ・エクスクルーシブのサイドインテークを拡大解釈したサイドフィンなど、ゲンバラはデザイナー、そしてチューナーとしての名声を飛躍的に上げたのでした。

 ここからはゲンバラ無双といってもいいほど傑作を連発。ガルウィングドアの928や、スムージングを施したかのような944、あるいはアバランシェ以外の911にしてもRUFとのコラボによって、より先鋭化するなど、ポルシェ・チューナーとしての地位を盤石なものとしたのです。


石橋 寛 ISHIBASHI HIROSHI

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