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売り方からメンテまで異例ずくめ! 速さでポルシェを唸らせたR35GT-Rもついに終了! 伝説だらけの歴史を振り返ってみた (1/2ページ)

売り方からメンテまで異例ずくめ! 速さでポルシェを唸らせたR35GT-Rもついに終了! 伝説だらけの歴史を振り返ってみた

この記事をまとめると

■R35型の日産GT-Rが2025年8月にいよいよ生産を終了する

■2008年にニュル市販車最速を記録するがポルシェからいちゃもんがつけられた

■筑波サーキットのタイムアタックで国産量産車として始めた1分切りを実現した

2007年12月に登場した世界と戦える唯一の国産スーパースポーツ

 スポーツカーとしては世界を見渡しても異例といえる長寿モデルであった日産(R35)GT-Rだが、2025年8月で生産終了することが正式にアナウンスされ、18年におよぶ歴史はまもなく幕を閉じる。そこで、あらためてR35GT-Rはどのようなクルマだったのか、個人的な見解を含めて振り返ってみたい。

ポルシェを速さで本気にさせた初めての日本車

 2007年のデビューは異例づくめだった。R35GT-Rが目指したのはスポーツカーの指標のひとつである「速さで量産車世界一となる」ことであり、その証拠に欧州の指標といわれるドイツ・ニュルブルクリンク北コースにおけるラップタイムは、2007年のデビュー前に7分38秒5を記録。翌年には当時の市販車最速となる7分29秒3まで向上した。

 このタイムに対してポルシェが日産に「疑わしい」と異議を申し立てたのは当時も話題となった。この一件により、R35は国産車として初めてポルシェを本気にさせたと世界中に認知されたのだ。

 その速さを引き出すために、当時の開発責任者である水野和敏氏は軽量化ではなく、四輪に最適な重量を与えて、タイヤの接地圧を高める物理の原理原則の考えを用いたのが特徴だ。これに四輪のグリップ力を最大限に活かす「アテーサE-TS」と重量配分を最適化するための「トランスアクスル」を組み合わせることで、空力デバイスの少ない市販車のパッケージ内で最大限のパフォーマンスと高い安全性が得られるようにまとめ上げている。

チューニングするとディーラー入庫拒否で新車保障の対象外になった

 また、欧州のスポーツカーと同様にイヤーモデル制を採用し、毎年クルマを進化させることを約束。さらに、GT-Rのメンテナンスを専門に請け負う「NHPC(日産ハイパフォーマンスセンター)」を全国のディーラーに設立するなど、サポート体制を整えたのも新しかった。

 ただ、デビュー当時は点検・整備の制約も厳しく、2000km点検ではアライメント点検・調整が義務付けられていた。さらに、チューニングを施すと、ディーラーへの入庫ができなくなるばかりか、最悪は新車保障の対象外。「バランスを崩して性能を低下させてほしくない」ということだったのだろうが、やりすぎだろうと思えるほど厳しかった。

 そのほか、初期はトランスミッションに不具合が続発し、タイヤ/ブレーキの交換で100万円オーバーが当たり前であったことから「R35は維持費がかかる」といわれた。その話題がマーケットに広がるとともに中古車相場が下落し、登場から3年目には400万円を切る個体も出始めた。いまとなっては信じられない出来事だ。現在は修理技術が確立しており、アフターマーケットにも代用品が数多く存在。維持費も抑えつつ、安心して乗れる体制が整っている。

サーキットの速さと公道の快適さを両立するオールインワンを目指した

 ただ、サーキットなどでの絶対的な速さは世界レベルだが、硬派な乗り味やうなるミッションなど、室内環境は快適といい難く、公道で乗ることはある意味苦行であった。2009年はカーボンブレーキを装着し、2シーター化されたスポーツモデルのスペックVも登場するなど小改良は施されたが、デビューしてからの約3年は、市販車として未完成だったといわざるを得なかった。

 この部分に大幅なメスが入ったのは2010年に発表された中期型と呼ばれる2011年モデルで、水野氏が「3年後に本当の姿を見せる」と語ったととおり、ショック/スプリングの仕様変更に加え、フロントロアームの変更によりレバー比まで変更。乗り味はかなり洗練された.

 2012年にはコーナーウエイトまで整えるため、市販車の常識を覆す左右非対称セッティングを採用するなどシビアなセッティングを施すが、当時は公道からサーキットまで1台でこなすオールインワンでは難しい側面があったのは確かだ。

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