この記事をまとめると
■1978年のジュネーブショーで童夢より公開されたのが和製スーパーカーの「零」であった
■ウェッジシェイプの効いたボディに2.8リッター直6を搭載するも日本で認可を受けることは難しかった
■童夢は夢の実現をアメリカに求めて現地法人を作って「P-2」を発表するも「零」が市販されることはなかった
スーパーカーブームが終焉に向かうなかで登場した和製スーパーカー
スーパーカーというと、この日本ではどうしても海外のブランドをイメージする傾向にあるが、この日本からスーパーカーを生み出そうというプランは、常に熱狂的な日本のエンジニアやデザイナーのなかにはあった。
そのなかでも衝撃的な存在だったのが、スーパーカーブームの火が日本ではまだ残っていた1978年の3月に、ジュネーブショーでワールドプレミアを飾った童夢・零だろう。いかにも童の夢を現実にするかのようなスーパースポーツの生産計画。それが立ち上がったのは1975年のことであり、リーダーは当時レーシング・コンストラクターを営んでいた林みのる氏である。
ボディデザインには林みのるとムーンクラフト代表の由良拓也が加わり、1976年には本格的な製作を開始。1978年初頭、ついにそれは完成した。
童夢・零のスタイリングは、平面で構成されたウエッジシェイプを特徴とした、表現を変えるのならば非常に未来的な感覚の強いフィニッシュだった。ボディ素材は軽量なFRPが選択されており、それによってポップアップ式のドアも容易に開閉することが可能になっている。車高は980mmと低く、これは世界でもっとも車高の低いスーパーカーを作ってみせるという意地の表れでもあった。
生産台数はプロトタイプということもあり、わずかに1台。現在は童夢本社のエントランスに展示されている。
リヤミッドシップに横置き搭載されたエンジンは、日産製のL28型直列6気筒。2800ccもの排気量があるのならばかなりの高性能を期待したいところだが、当時はそれで得られた最高出力は145馬力が限界だった。さらに、チューニングを進めても、排出ガス規制などさまざまな問題があり、日本で童夢・零を認可してもらうことは現実的には不可能だったのだ。
そこで林氏を中心とするグループは、アメリカに現地法人を作り、日本ではなくアメリカでの認可取得を考える。
そのために製作されたのがP-2と呼ばれるモデルで、こちらはアメリカの安全基準に合致させるため、ボディが若干大型化されたこともあり、残念ながらスーパースポーツに必要な、魅力的な運動性能を得ることができなかった。シャシーを鋼管スペースフレームに変更し、リヤタイヤのサイズや速度規格も見直された。
このP-2は2台が製作されさまざまな走行テストも行われたが、やはり満足のいく結果が得られることはなく、零はいつしかその名こそ受け継ぐものの、レーシングマシンの零RL(レーシング・ル・マン)へとコンセプトを大きく変えてしまうことになる。
日本ではその後も、さまざまなスーパーカープロジェクトが立ち上がるが、それが最後まで完結した例は、やはり大規模な自動車メーカーが巨額の予算を投じて開発したモデルがほとんどだ。いつかこの日本からも、世界のトップに君臨するスーパーカーが誕生してほしい。それは長くスーパーカーの世界に魅了されてきた者ならば、誰もが抱く夢にほかならないのである。