打倒フェラーリを掲げて開発されたジャガーXJ13! 闘うことなく消えた悲運のマシンは後年オークション価格でフェラーリに勝利!! (2/2ページ)

打倒フェラーリの旗印のもとで開発されたXJ13

 だがジャガーの内部では、ライトウエイトEタイプでのレース参戦とともに、新たなコンペティションモデルの開発がそれに前後してすでにスタートしていた。じつはジャガーは、1950年代からDOHCのV型12気筒エンジンの製作を検討しており、まずはそれをレース用に、そしてのちにSOHC仕様をロードモデルに搭載するという長期的なプランを描いていたのだ。

 1960年代も半ばを迎える頃になると、レースの世界においてはフロントエンジンの基本設計は完全に時代遅れのものとなり、ジャガーのエンジニアたちは、そのDOHC版V型12気筒をミッドシップするという基本設計を模索するようになる。

 そのプロトタイプは1960年にはすでにウィリアム・ヘインズによって提案されていたというが、製作が始まったのは1965年からで、初走行は1966年3月まで待たなければならなかった。

 美しいラインで構成されたボディは、CタイプやDタイプでエアロダイナミクスを担当したマルコム・セイヤーを中心に、のちにロータス社の社長に抜擢されるマルコム・キンバリーなどのチームで生み出されたもの。セイヤーはかつてブリストル・エアロプレーン社に在籍したキャリアをもち、そのときに得た航空機デザインのノウハウを、このプロトタイプで存分に発揮したのである。

 ミッドに搭載されたエンジンは、5リッターのV型12気筒。前で触れたとおり、それはもちろんDOHCヘッドをもつもので、ウィリアム・ヘインズとハリー・マンディを中心に設計されている。

 そしてこのプロトタイプには、「XJ13」の車名が掲げられることになったのだ。だが、このXJ13のプロジェクトは数回のテストを行ったものの、最終的には当時のジャガー代表であったウィリアム・ライオンズの意思により、それ以上の走行テストの一切をキャンセル。さらにFIAが1968年シーズンからグループ6(プロトタイプレーシングカー)の排気量制限を3リッターとする決定を下したことで、XJ13は完全に参戦の場を失ったのである。

 1996年にはオークションシーンで、当時のフェラーリ250GTOの3倍近い700万ポンドで入札されるも落札を拒否された記録も残るジャガーXJ13。現在、それはコヴェントリーのジャガー本社工場に併設される、ジャガー・ダイムラー・ヘリテージ・トラストで保管されているという。

※ジャガーXJ13の画像はすべて精巧なレプリカモデルのものとなります


山崎元裕 YAMAZAKI MOTOHIRO

AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員 /WCOTY(世界カーオブザイヤー)選考委員/ボッシュ・CDR(クラッシュ・データー・リトリーバル)

愛車
フォルクスワーゲン・ポロ
趣味
突然思いついて出かける「乗り鉄」
好きな有名人
蛯原友里

新着情報