圧倒的性能こそがGT-Rを名乗るための必要条件だ
開発段階でGT-Rの試作車まで作られていたR31型
次のR31型では直列6気筒のRB20が主力になることが決まっており、GT-R待望論は日増しに高まっていた。じつは櫻井氏が病に倒れ、一番弟子といわれる伊藤修令氏が開発責任者として抜擢されたとき、R31型がデビューした翌年の1986年にラインアップに追加予定であった2ドアクーペには、GT-Rエンブレムがつけられた試作車が存在していたそうだ。
ただ、伊藤氏も櫻井氏同様にGT-Rは「他車を寄せ付けない圧倒的な性能を持った車両であるべき」という考えが根底にあったこと、そしてうひとつ、デビューしたR31型のRB20DETエンジンの評判が芳しくなく、このような状況でデビューさせてはGT-Rの歴史に泥を塗ることになると判断したため、GT-Rとして発表する予定であったモデルはGTSと名称を変更されたのだ。
次の8代目スカイラインでも陣頭指揮を取り、R32型でGT-Rを復活させた伊藤氏は、過去のインタビューで「1985年末に外国の有望チームを招き富士で開催されたグループAレースではR30スカイラインは海外勢だけでなく、国内勢にも惨敗。次期型スカイラインではGT-Rを復活させて、レースで圧勝すると心に決めました。ただ、他を寄せ付けないほどの性能を兼ね備えるために開発に時間をかけて磨き上げ、R31型では途中GTS-Rと呼ばれるホモロゲーションモデルを投入するなど、GT-R復活に向けたさまざまな試みを盛り込みました」と語っている。
「GT-Rは決して安売りしてはいけない」その思いは歴代不変
1990年代までに走りで世界一となるべく目指した社内活動の「901運動」や走りとトラクション性能を両立する先進の電子制御式4WDシステム「アテーサE-TS」の完成など、さまざまな要因が重なり合い、GT-Rは16年振りに復活することができたが、期待を上まわる高性能もさることながら、開発者の「GT-Rは決して安売りしてはいけない」という思いなくして、名車として今日まで語り継がれることはなかったはずだ。それはその後のR33/R34/R35も思いは受け継がれている。
C210/R30/R31にGT-Rが存在しなかったのは、開発陣の並々ならぬこだわりが名乗ることを許さなかったというわけだ。