55年に渡るGT-Rの歴史にある「空白の16年」! スポーツグレードは存在したのに日産がGT-Rを「名乗らせなかった」理由とは (1/2ページ)

この記事をまとめると

■55年のGT-Rの歴史のなかにはGT-Rが存在しなかった期間が16年ある

■6代目R30型スカイラインは直4であったためにGT-RではなくRSを名乗った

■7代目R31型では搭載予定の直6の評判が悪くGT-Rの名に泥を塗るとしてGTSとなった

2025年8月に一旦幕を閉じるGT-Rの歴史

 2025年8月をもって生産終了がアナウンスされた第3世代GT-RことR35型。日本のドメスティックな高性能モデルであったスカイラインGT-Rを日産GT-Rとして独立させ、日産が誇る最新のテクノロジーと世界のスポーツカー/スーパーカーと肩を並べる性能を備え、日本代表のスポーツカーとしてグローバルに打って出た。

 最初はそのコストパフォーマンスに注目が集まったが、その後、17年間、開発陣の絶え間ない努力とブランディング戦略により、1969年から始まったGT-Rは、世界に認められる存在にまで成長したといっていい。

技術的にはケンメリGT-Rを継続することは可能だった

 GT-RがPGC10(3代目スカイラインのハイパフォーマンスグレード)として産声を上げてから55年。その歴史のなかでGT-Rが存在しなかった期間が16年ある。世代でいえば5代目のC210型(1976~81年)、6代目のR30型(1981〜85年)、7代目のR31型(1985〜89年)だ(12代目のV35型、13代目のV36型、14代目のV37型は日産GT-Rとして独立した車種として開発が決定しており、V36型の途中からR35GT-Rが登場している)。では、この3世代でなぜGT-Rが設定されなかったのか?

 ジャパンと呼ばれた5代目の前の4代目スカイライン(C110型)はGT-Rが用意されたが、わずか3カ月で生産を終了している。当時はスポーツカーを開発するよりも、1973年に始まったオイルショック(原油価格高騰)による物価高騰や当時対応が迫られていた排ガス規制対策&省燃費に注力するたることが優先であったためだ。当時のスカイラインの開発責任者であった故・櫻井真一郎氏は、のちに「技術的にはS20型エンジン(スカイラインGT-Rに搭載された高性能ユニット)を延命することは可能であった」と語っている。

史上最強と呼ばれたR30型がGT-Rを名乗れなかった理由

 ジャパンはその流れを組み、燃料供給装置がキャブからインジェクションに変わっただけでなく、CO/HC/NOx低減を目的とした新機構NAPS(NISSAN-ANTI-PLLUTION-SYSTEM)を搭載。段階的に厳しくなる排ガス規制対策への対応に追われており、社内から復活の声はあったが、GT-Rの開発に力をまわす余裕はなかった。

 1978年でようやく排ガス規制対策にめどが立ったことから、他メーカーを含めてパフォーマンス向上との両立を目指した開発が進められ、日産も1979年に国産車初のターボエンジンを開発し、1980年へジャパンに設定。高性能化への足がかりを築いた段階で、R30へとバトンタッチした。

 次世代のR30型ではそうしたハイパフォーマンス化の流れから、社内ではさらにGT-R復活への声は高まったが、開発責任者である櫻井氏は「他車を圧倒的に凌駕し、時代の最先端を走るメカニズムを採用したクルマでないとGT-Rを名乗る資格はない」という確固たる信念をもっていた。

 ケンメリ以来のツインカムエンジンの復活、ターボという武器を経て、歴代最高の飛び抜けた高出力を誇り「史上最強のスカイライン」と呼ばれたR30型は櫻井氏の考えに合致しているように思われたが、氏には「GT-Rはスカイラインのフラッグシップ、ゆえに直列6気筒DOHCであるべき」という強いこだわりもあり、4気筒であるR30はRS(レーシングスポーツ)とネーミングになった。

 ちなみにRSに搭載されるFJ20型エンジンは、開発当初から短命であることが決まっており、ゆえに櫻井氏は開発を担当した村崎 明氏に「他社にはない特別なエンジンを好きなように作っていい」と任せたそうだ。


新着情報