ドライバーの直感に訴える看板として誕生
■「飛び出し坊や」には50年の歴史があった!
「飛び出し坊や」が初めて道端に現れたのはいまから50年ほど前の1973年のことでした。
1960年代から日本国内は高度成長の波に乗って経済が活性化しました。その影響で流通が盛んになり、一般家庭ではマイカーをもつのが当たり前になって全体が豊かになっていきました。しかし、まだまだクルマというものに社会が慣れていない状況だったため、全国で交通事故が増加し、そのなかでも子どもがクルマに轢かれる事故が増え、各自治体はその対応に追われることとなりました。
その自治体のひとつ、滋賀県八日市市(現・東近江市)の社会福祉協議会が子どもの飛び出し喚起の対策として、地元の看板製作所(久田工芸)に、道路脇に設置する立て看板を依頼したそうです。そのときに作られたのが、いまの「飛び出し坊や」に続く原型の看板でした。
そのときは「ひみつのア○コちゃん」に似た女の子と、「バ○ボン」のパパに似た4歳くらいの丸刈りの少年が走っている姿を切り抜いた板に描いたものでした。考案者は赤塚不二夫さんのファンなのかもしれません。
当時はまだ縦長の四角いブリキ板に注意喚起の文字を書いただけのものが主流でしたが、走っている子どもの姿を切り抜いた看板はまだ無く、運転しているドライバーの直感に訴えるこの方式は斬新だとして徐々に全国に広がっていったようです。
この看板を考え出した「久田工芸」代表の久田さんは、依頼を受けてすぐにクルマで市内を走ってまわってみたそうで、そのときに見た既成の看板では、文章を読んで理解するという段階を踏まないとならないため、運転しながら瞬間で理解するのは難しいと感じたそうです。それならば子どもの姿を見せればいいじゃないかと考えた久田さんは、もともと絵が好きだったこともあって、すぐに試作品を作って提出したところ、採用が決まったそうです。
■滋賀県から全国へ広まっていった?!
始めは八日市市の市内だけの設置でしたが、飛び出し喚起の運動を滋賀県の各地に広げることとなり、それとともに「飛び出し坊や」も徐々に勢力(?)を拡大していきました。そしてその存在を知った隣県の自治体にも採用されることとなり、その広まりは滋賀県を超えて全国へと伝わっていったそうです。
その頃にはだんだん男の子の看板の比率が多くなっていき、それとともに目が大きくクリッとなり、今のキャッチーな姿へと変化していきました。
■命名は「みうらじゅん」氏!?
考案者の久田さんはこの看板の男の子を「とびだしとび太」と命名していたそうですが、1976年くらいにイラストレーター(?)のみうらじゅん氏が琵琶湖付近をドライブ中にこの看板を見付け、「飛び出し坊や」と呼んで推し活動の対象に入れたことで、サブカルチャー方面からも徐々にその存在が広まっていったのだとか。
■町おこしの一環にもなっている
久田工芸での「飛び出し坊や」の制作はいまでも続いているそうですが、昔から一貫して手作業に近い工程で制作されるこの「坊や」はただの看板に留まらず、地元の東近江市ではある意味魂が宿っているかのように扱われているそうです。古くなって色あせたりひび割れたりした看板は安易に廃棄せず、地元のPTAなどの雄志の手によって修復されて使い続けられているのだとか。
まるでお地蔵さんのような存在といっていいかもしれません。
■バリエーションもいろいろ
そうして誕生の1970年代からいままで、地元だけに収まらず全国で子どもの飛び出しによる事故を防いでいる「飛び出し坊や」。全国各地でその土地ごとに変化を遂げながらずっと使われ続けています。そのため、発祥の東近江市での変遷も含めていまでは、有名キャラクターとコラボしたようなものや、その土地の商業の振興のために呼び込みスタイルになっていたりといろんなバリエーションを生み出しているそうです。東近江市を起点にして、オリジナルのルーツを辿ってみるのもおもしろいかもしれません。
また、東近江市を訪れた際には、「飛び出し坊や」をモチーフとしたオリジナルのグッズも見てみましょう。