この記事をまとめると
■さまざまな事情により思い入れのあるクルマを手放さなくてはならなくなることがある
■廃車にせざるを得なくなった事情の多くは事故だ
■廃車にしたクルマがプレミア価格で取引されているのを見るのはなかなか切ない
筆者とその友人が経験した廃車エピソード3選
思い入れが強いクルマには、人生のなかでそう多く出会えるものではないでしょう。なので、もしそういうクルマに巡り会えたときは「一生乗り続けていきたい」と思うこともあると思います。
しかし、運命というのは、ときに残酷な仕打ちをオーナーに与えることがあります。たとえばいろんな事情で手放さなくてはならなくなったり、あるいは災害や盗難に遭ってしまったり……。
愛着があるほどそれぞれが辛い別れになると思いますが、なかには自分自身の決断で愛車に引導を渡さないとならないケースもあるでしょう。思い入れの内容やその人のクルマとの付き合い方によっては、その別れのほうがもっとも辛いと感じるかもしれません。
ここでは、筆者と友人・知人が実際に経験した話を元に、愛車を廃車にしなくてはならなかったエピソードを紹介していきましょう。
■初めての相手はオカマが原因でお別れ
わたくし、往 機人(おうあやと)が初めて所有したクルマは、1990年式のホンダ・アコード(4代目)でした。
そのとき就職した会社はクルマ通勤が条件だったので四輪の免許を取得したのですが、金欠だったので格安の中古車を探すことにしました。
クルマを探し始めると、タイミング良く祖父がクルマを乗り換えるので手放すというではないですか。渡りに船とばかりにだいぶ緩い条件の「お爺ローン」を組んでもらい、アコードが手元にやって来ました。
走行11万kmのそのアコードは、車体はそれなりにヤレていましたが機関はいたって好調で、通勤はまったく問題なくこなせていました。
そのアコードは2リッターSOHCエンジンのAT仕様でしたが、エンジンは気もちよくまわり、「さすがホンダのエンジンだ」とけっこう気に入っていました。
ひと月ほど経ったタイミングで、祖父が手放すという理由だった車検が訪れましたが、知り合いに助けてもらいながら、初めてのユーザー車検に挑戦し、自分のクルマになったなと実感できました。
そうして運転にも慣れ、少し足を伸ばしたツーリングにもちょくちょく行くようになってきたある日のことです。
仕事明けでやや気だるさを抱えながら深夜に帰宅の途についていました。
自宅まであと少しという辺りで赤信号で信号待ちをしていると、フワッと眠気が襲ってきました。が、少し船を漕ぐ感じでこらえて目を開けると、正面の信号が青になっているのに気付きました。
あわててアクセルを踏んで発進すると、すぐ目の前に前のクルマのテールが迫っていました。「ガシャン!」と聞いたことがないくらいの大きな音と衝撃が襲ってきて、一拍のあとに「しまった! ぶつけた!」と事故を起こしてしまったことに気付きました。
速度が出ていなかったことと前のクルマが頑丈な輸入車だったことで、幸いにも相手も自分も怪我なく済みましたが、アコードのノーズはあからさまにひしゃげていました。
自走はできる状態でしたが、ラジエターからLLCが漏れていたのでレッカーで自宅まで運んでもらって、後日近所の整備工場に依頼して修理の見積もりをお願いしたところ、修理代が50万といわれました。
相手の鈑金修理代を払わないとならなかったこともあり、とてもその費用を捻出できる見通しが立たなかったため、まだしばらく乗りたいと思っていましたが、泣く泣く廃車することを決めました。