開発者の執念がアンフィカー770を誕生させた
アメリカを主なターゲットとして、価格は2800~3300ドル(発売時期によって価格が変動した様子)と設定されていましたが、当時のシボレーやキャデラックよりも高価だったこと、前述のとおりメンテナンスが船舶なみに大変だったことから、販売は3000台程度に終わったとされています。が、実際はアメリカの法規(主に河川と環境系)が変わったことで、著しく航行範囲が狭められてしまったことだとされています。
ところで、アンフィカー770の生みの親、ハンス・トリッペル氏は独学で自動車づくりを学んだ努力の人。第二次大戦後、一時メルセデス・ベンツに身を寄せた際、300SLのガルウイングを考案したことでも有名だそうです。
もっとも、彼が一生をささげたのはなんといっても水陸両用車。戦時中はナチから資金援助を受けてSG6という水陸両用車をドイツ陸軍むけに開発し、20台の完成車を納めています。アンフィカー770がまがりなりにもクルマの形をしているのに対し、SG6はボートに車輪がくっついたスタイルで、フォルクスワーゲンでフェルディナンド・ポルシェ博士が作ったあまりにも有名な水陸両用車「シュビムヴァーゲン」にそっくり!
ですが、トリッペル氏のほうがひと足早く開発・納入をしていたのは確かで、ポルシェ博士のほうが後追いなのです。が、トリッペル氏はナチス党内でどういうわけか評判が悪く(頑固な職人タイプだった?)水陸両用車のお手柄はポルシェ博士にもっていかれてしまったのでした。
その後の数年も不遇な暮らしを続けていたのですが、1961年、前述のクヴァント・グループの総帥、ハラルド・クヴァントが救いの手を伸ばしアンフィカーの事業化にこぎつけることができたのです。
一般向け水陸両用車としては破格の生産台数を誇ったアンフィカー770でしたが、トリッペル氏はさほど満足しておらず、事業を畳んだあとはドイツ連邦軍向け水陸両用車コンサルタント事業などを行いながら、引き続き水陸両用車の開発を続けていたそうです。
ちなみに、最後の水陸両用車のプロトタイプを作り上げたとき、彼は81歳でした(2001年、93歳で逝去)
ナチのくだりは承服しかねる方もいらっしゃるでしょうが、ポルシェ博士のように当時の売れっ子エンジニアはナチスに利用されがちでしたから仕方ないっちゃ仕方ありません。それよりもアンフィカー770によせられたトリッペル氏の執念や野望に思いを馳せてみれば、男としてなにかをやり遂げたくなる、といったらこじつけに聞こえてしまうでしょうか。
昔もいまも、トリッペル氏のような一心居士に憧れる方は決して少なくないはずです。