この記事をまとめると
■1974年にアウディはコンパクトカーの「50」を発売した
■わずか4年の間に約18万台を売り上げて人気を得ていた
■アウディは50を1978年に生産終了して以来1996年のA3までコンパクトカーを生産しなかった
NSUプリンツに代わるコンパクトカーがアウディ50だった
フォルクスワーゲンとアウディのシナジー、すなわち基本設計を同じくしながらベーシックをVW、アウディは上級機種を販売するというブランド戦略、これがスタートしたのは、いまからちょうど50年前のこと。オイルショックが世界を襲う兆しでもあったか、最初のモデルはアウディ50というコンパクトモデル。いうまでもなく、初代ポロとそっくりな佇まいで、4年という短い生産期間ながら約18万台を販売したスマッシュヒットとなりました。
1970年、アウディは前年に吸収合併したNSUのコンパクトセダン「NSUプリンツ」の後継モデル開発に乗り出しました。1950年代に登場したプリンツは598ccからスタートして1200ccまでラインアップし、マン島のツーリストトロフィに出場するほど優秀なクルマでしたが、いかんせん旧態化は否めず首脳陣は大幅な刷新を企図したのです。
その際、基礎となった考えは「現代のクルマは現代の要請に応じたサイズでなければならない」とのこと。この場合のサイズは車体だけでなく、居住空間も重要視され(プリンツも小型ながらフロントシートはフルリクライニングするなど効率性はずば抜けていました)、その結果、RRレイアウトはFFへと変更され、ハッチバックスタイルが選ばれたのです。
パッケージデザインを担ったのは社内デザイナーのハルトムート・ヴァルクス(Hartmut Warkuss/のちのフォルクスワーゲンのチーフデザイナー)ですが、イタリアのベルトーネが携わったとする資料もあるようです。これは1977年にフォルクスワーゲンがリリースしたアウディ50のノッチバックモデル「ダービー」に彼らが関わった情報が紛れ込んでいるのかもしれません。
ヴァルクス氏は1972年に登場するセダン、アウディ80のデザインもほぼ同時に行っており、80よりもコンパクトで効率のよさをアピールするためにも、ハッチバックスタイルがマストだったと述懐しています。
また、アウディ50だけでなく、当時のフォルクスワーゲンやアウディが熱心に取り組んでいたのがエンジン横置きのFFレイアウトでした。全長3490mmと現在の視点からも超コンパクトな車体に、大人5人を乗せて、しかも後部にラゲッジスペースを確保するには、このアイディア一択だったに違いありません。
同じタイミングでフォルクスワーゲンが開発していたゴルフよりもコンパクトながら、当時のヨーロッパではニーズの高かったサイズだといえるでしょう。