車名がそのままブームの名前ってスゴくないか!? バブルを地でいく「初代シーマ伝説」が衝撃だった (2/2ページ)

女性たちには上質な乗り心地が大好評だった

 バブル期の当時は空前のディスコブームでもあり、ドラマ「不適切にもほどがある」で昭和の象徴のひとつとして登場したディスコのマハラジャは1982年オープン(ジュリアナは1991年オープン)。夜な夜な六本木や赤坂に老若男女が繰り出し、東京タワーを見据えるネオンきらめく夜の街に堂々たる貫禄感をかもしだしつつ溢れていた国産車の1台がシーマでもあったのだ。

 当時、筆者は講談社ホットドッグプレスでクルマの記事を担当し、ドライブデート記事を連載していたのだが、クルマはオンナにモテる三種の神器のひとつとしてあがめられ(という方向性で記事を書いていた)、ポルシェ、メルセデス・ベンツ、BMWなどの輸入車勢と対抗できる国産モテグルマの象徴が、「シーマ現象」という文化を創り出したシーマにほかならない。

 ハイソカーブームは特定の車種に限定されないのだが、車名がそのままブームの主役となることは滅多にない。その点でも、シーマは日本の自動車史に大きな足跡を残した名車と呼んでいいと思う。

 なにしろエアサスペンションのふんわりとした快適無比な(当時の国産車として)乗り心地、豪然たる加速力(ターボのほう)、インテリアの高級感(当時の国産車として)、ゆったりと寛げるウール100%のファブリックやレザーを使った室内環境は、バブルに浮かれた男子にはもちろん、ワンレンボディコン女子にも大受け。ディスコで踊りまくり、けっこう疲れた、ワンレンボディコン女子の体を癒すのにもシーマの乗り味、静かさは、ディスコのVIPルームさながらに最高だったはずだ(その後、もっと癒されるんですけどね……)。

 255馬力、35.0kg-mのスペックを持つターボモデルの加速力はある意味、獰猛。アクセルペダルを床まで踏みつければ、一瞬、リヤをグイッと沈み込ませたあと、タイヤのスキール音とともに猛ダッシュする。これは六本木の路上でよく見かけたシーマ・パフォーマンスシーンでもある。

 また、当時の高速道路では、路肩をぶっ飛び走行する不謹慎な輩も多かったのだが、乗っているクルマの筆頭の1台がシーマでもあった。手に入れ、運転していると、気が大きくなるクルマだったのかも知れない。

 当時を振り返ると、知り合いのなかにローンでシーマを手に入れた若き編集者がいた。身長180cm超え、体重90kgぐらいの大男で、普段から態度が大きい奴だ(根はいい奴)。そんな彼には迫力あるダークブルーのシーマがまさにお似合いで、まわりからは親しみを込めて!? 「シーマくん」と呼ばれていたことを思い出す。一度、彼を夜の六本木で見かけたことがあるが、肩を窓から出し、ぶっとい腕をブラフラさせながら徘徊していた。シーマはナンパ確率も極めて高いバブルカーでもあった、と、のちに彼から聞いた。

 もちろん、シーマをジェントルに乗りこなす、アルマーニ着用の好青年もいた。ボディカラーは主に伊藤かずえさんと同じホワイトボディのシーマで、シーマといえばダークブルーのボディカラーを思い出しがちだが、日産最上級オーナーセダンとしての品格は、こちらのほうが格段に上である。

 いずれにしても、初代日産シーマは、当時の国産ハイソカーの頂点の1台として、いろいろな意味で多くの人にバブルの泡とともに愛された、日本車の自動車史に残る名車であることは間違いない。残念ながら、セルシオなどに対抗してV8エンジンまで搭載した2代目(1991年~)以降のシーマは、バブル崩壊の時期とちょうど重なり、シャンパンの泡が消えるように、初代の勢いに乗ることはできなかったのだが……。


青山尚暉 AOYAMA NAOKI

2024-2025日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員

愛車
フォルクスワーゲン・ゴルフヴァリアント
趣味
スニーカー、バッグ、帽子の蒐集、車内の計測
好きな有名人
Yuming

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