日本の景気低迷で少量生産の高級スポーツカーは成り立たず
ロサンゼルスのアートセンター・カレッジ・オブ・デザインを卒業し、その後GMやオペルなどで数々の作品を残した伊藤邦久氏をチームリーダーとして進められたデザインは、まさにグループCマシンがそのままロード用に進化したかのような魅力を持つものだった。
左右のドアはガルウイング式で、初の一般公開となった1989年の第28回東京モーターショーでは、新たな国産スーパーカーの誕生に、多くのゲストが大きな夢を抱いたはずである。
しかし、1990年代に入ると、キャスピタのプロジェクトは暗礁に乗り上げてしまう。F1での失敗を理由に、モトーリ・モデルニとスバルの関係には終止符が打たれ、ジオットはキャスピタのために新たなエンジンを探す必要に迫られたのだ。
搭載エンジンとそれに伴う設計変更には約1年半という時間が費やされ、キャスピタの2号車は1992年についに完成。注目のエンジンは1991年から、F1チームのスクーデリア・イタリアに供給されていた、ジャッド製の3497ccV型10気筒DOHC5バルブで、最高出力はロードモデル用とはいえ585馬力を発揮していた。
ボディデザインを、オンロードでの扱いやすさを中心に一部見直したり、モノコック後端の形状やリヤサスペンションの取り付け位置を変更したりと、1号車からのリファインには1年以上の時間を必要としたが、1993年7月、再びそれが披露された舞台において、童夢からはこのキャスピタの市販は行われないことが表明された。
それは高級スポーツカーの少量生産というビジネスモデルが、日本の景気低迷のなかでもはや成立しないことが理由だった。
あるいはキャスピタの誕生は、少し時代の先を行き過ぎたといえたのかもしれない。たとえばヤマハのOX99-11などとともに、いまこの瞬間にその正常進化型を見ることができたらと思うのが正直な気持ちだ。