この記事をまとめると
■いすゞは大正時代から自動車の製造を企画しており、その後も独創的なクルマを作り続けた
■商用車では成功していた一方で、乗用車部門ではいまひとつな成果であった
■技術を核にした独創性を重んじる社風が特徴で、それはいまの商用車開発でも生かされている
名車だらけのいすゞが乗用車をやめたワケ
いすゞの歴史は大正時代に遡る。1916年に前身である東京瓦斯電気工業が、東京石川島造船所と自動車の製造を企画した。2年後には英国のウーズレーと契約し、22年に国産第1号を完成させ、のちにこれをスミダに改名している。そうした動きは、じつはトヨタより早かった。
第二次世界大戦前はディーゼルエンジンを開発し、トラックを製造するなどしていたが、戦後、英国のルーツ社と技術協定を結んでヒルマン・ミンクスという乗用車を完成させた。昭和30年代では、ルノー4とともにタクシーとして活躍した乗用車である。そして、62年に自社開発のベレルを発売した。翌年には、より小型のベレットを発売し、その走りのよさで愛好者を魅了した。また、日本車としてはじめてGTと名乗る高性能車種をベレットに加えている。
トヨタや日産ほど普遍的ではなかったが、知る人ぞ知るクルマ好きのための自動車メーカーとして、当時のいすゞは存在感を持っていた。
一方、日産と提携したり、米国のゼネラルモーターズ(GM)と提携したりと、乗用車においては必ずしも経営が安定した状態とはいかなかった。117クーペやジェミニといった記憶に残る名車や、RV(レクリエイショナルヴィークル)のビッグホーン、独特な造形に挑戦したビークロスなど、ほかにない魅力や、RVの時代を切り拓く先見性などがあったが、それも長続きしなかった。
最終的に、1993年に小型乗用車の自社開発と製造を中止するとともに、他社からのOEM(他社のクルマ)の製造を含む乗用車生産から撤退し、商用車への資源の集中を2002年に決断したのであった。
技術を核にした独創性を重んじる社風は、かつてのプリンス自動車に通じる気風であったかもしれない。しかし、商売という視点では、得手ではなかったのではないか。それでも、商用車では確固たる存在感を維持したことで、今日に社名を残すことになった。たとえば、小型トラックのエルフは、商用とはいえひとつの身近なブランド(車名)といえるだろう。
先のモビリティショーでは、UDトラックスとの共同出展という新たな試みも行われた。沿革を振り返れば紆余曲折ともいえなくもないが、常に挑戦する姿勢が、独自性をもたらし、印象深いメーカーとして人々にいすゞを記憶させるのだろう。