この記事をまとめると
■ブリックリンSV-1は1974年から1976年まで約2800台が販売された
■スバル・オブ・アメリカを独力で創立したマルコム・ブリックリンというビジネスマがブリックリンSV-1を作った
■いち早くマイルバンパーを採用し電動ガルウイングを備えるなどブリックリンSV-1はかなりクセが強いクルマだった
スバル360の次のクルマがブリックリンSV-1
クセのあるクルマの陰には、それ以上にクセの強い男の影があるもの。デ・トマソしかり、デロリアンしかり、そしてブリックリンSV-1という1970年代らしいクルマにも、マルコム・ブリックリンという希代のビジネスマンの夢がパンパンに詰まっていました。面白そうなクルマだったのですが、奇しくもデ・トマソやデロリアン同様、さほど幸せな結末だったとは思えません。
1974年から、生産終了となった1976年まで、およそ2800台が販売されたブリックリンSV-1。馴染みのないモデルかもしれませんが、アメリカやカナダではカルト的な人気を誇り、いま現在でも半数以上が動態保存されているようです。
また、数は確認できませんでしたが日本にも複数台が輸入され、中古車マーケットに登場していたこともありました。ご覧のとおり、当時のアイコンともいえるマイルバンパーや、大ぶりなガルウイングドアなどいかにも1970年代らしいスタイリングといえるでしょう。
これを作ったブリックリン氏は19歳にして家業の金物店をフランチャイズ化するなど、商才に長けた人物として、いまでも現役のビジネスマン。また、1968年にはスバル・オブ・アメリカを独力で創立し、スバル360やスバル1000を輸入するという日本人としては親近感を覚えやすい人物かと。
もっとも、スバル360は当時のアメリカの法規スレスレだったらしく「危険なクルマ」のレッテルを貼られたことも。それでも、ブリックリン氏は「堅実で安価な日本車が、いずれアメリカで人気を博すことを見通していた最初の自動車関係者のひとり」と評されているのです。
1971年には評判が芳しくなく売れ残ってしまったスバル360をブルース・マイヤーズ(初代ピーターセン自動車博物館長、著名な自動車コレクター)に軽くチューンアップさせ、巨大な駐車場で乗りまわせるフランチャイズサービスを始めるなど、転んでもただでは起きないタイプといえるでしょう。
そんなブリックリン氏が長年抱いていたのがクルマづくりという夢。また、スバル360でアメリカのユーザーが(意外なほど)安全性にこだわることを痛感していたため、「自分で作るならプライオリティは安全性だ」と公言していたそうです。
で、チャンスはカナダからやってきました。1971年、ニューブランズウィック州が州内の雇用促進にむけた支援金4万5000ドルが提供され、ブリックリン氏はゼネラル・ビークルズを設立。すぐさまSV-1の製作に乗り出したのでした。
この車名は、Safety Vehicle 1号車を意味するもので、安全性への取り組みはブリックリン氏の構想どおり最優先されたといいます。前述のマイルバンパーは、1970年にアメリカで制定されたばかりの基準にいち早く対応し、またシガーソケットや灰皿を装備していないのも「運転中の喫煙は危険」という氏のモットーを表したもの。