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どうみても4輪車のカタチなのに3輪車! 遊びじゃなくて大真面目に作られたイギリス車「フリスキー」って何もの? (1/2ページ)

どうみても4輪車のカタチなのに3輪車! 遊びじゃなくて大真面目に作られたイギリス車「フリスキー」って何もの?

この記事をまとめると

■フリスキースポーツは、1950年代、イギリスのフラワー大尉とその仲間によって生み出された

■市販バージョンのデザインはジョバンニ・ミケロッティが担当し一気にモダン化された

■オープンカーやクーペなどさまざまなバリエーションを生んだが1961年に生産を中止した

多くの挫折を乗り越えて誕生したフリスキースポーツ

 クルマ業界にはいわゆる立志伝中の人が少なくありません。本田宗一郎やフェルッチオ・ランボルギーニ、あるいはアレハンドロ・デ・トマソなど、クルマ好きならばそんな人物やエピソードをすぐさま思い浮かべることができるはず。ですが、イギリス人の元レーシングドライバー兼マネージングディレクターだったレイモンド・フラワー大尉が頭に浮かぶという方は少数派に違いありません。とはいえ、クルマ作りにかけた情熱やド根性は、メジャーブランドにいささかも引けを取るものではなく、まして彼の作品を見たらいっぺんで脳裏に焼き付くこと請け合いです。

 1950年代初頭、フラワー大尉はエジプトのカイロでイギリス車「ナフィールド」のディーラーを統括するのと同時に、ふたりの兄弟、デレクとネヴィルとともに家業の醸造業(フラワー&サンズ)にも携わっていました。1954年になると、フラワー大尉はエジプトのナセル大統領を巻き込んだ「フェニックス」という自動車メーカーの立ち上げを計画。ところが、1956年に起きたスエズ運河危機によってイギリスとエジプトが決別し、計画は水泡に帰してしまうのでした。

 普通ならば挫折するとか、こりごりになるところでしょうが、フラワー大尉にはイギリス人特有の「不屈の精神」が人一倍備わっていたようです。「ナセルがだめなら、イギリスじゃ」とばかりに母国でもって猛烈な売り込みをした結果、自動車/船舶/産業用エンジンのトップメーカーだったヘンリーメドウズ社との提携を取り付けたのでした。そして、メドウズ社の片隅でプロトタイプ作りを始めると、フェニックス計画で設計プランを担ったエンジニアのゴードン・ベドソン、そしてメドウズ社のエンジニア、キース・ベックモアが参画。ふたりは、この後もフラワー大尉のクルマ作りにとって欠かせない仲間となっていきます。

 1956年10月には、早くもプロトタイプ「バグ」が完成しました。時代を反映したのか、マイクロカーのコンセプトに沿ったクルマで、乗り降りしやすいよう開口部の大きなガルウイングドアを採用し、ラダーフレームのトレッドを狭く設計することでデファレンシャルギヤを省略するなど、初号機としてはなかなか優れたもの。

 メドウズ社の首脳部は、これを翌年のジュネーブショーに出品することを決定し、ボディのデザインをトリノのカロッツェリア「ヴィニャーレ」に依頼すると、売り出し中だったジョバンニ・ミケロッティがデザインを担当。それまで、ベドソンが描いたそれこそ虫のようなプロポーションだったのが、一気に洗練されると、当時のマスコミからの注目を集めたのでした。

 搭載されたエンジンはバイクのエンジンを作っていたヴィリアーズ製の空冷2気筒250ccながら、オウルトンパークで行われた走行テストでは88km/hの最高速を記録。この際のテストは7日間24時間ずっと走り続けるという過酷なもので、総距離6400kmに及んだとのこと。

 ところで、このプロトタイプはどういうわけかメドウズ社の名前を使わせてもらえず、フラワー大尉は悩んだ末に「フリスキースポーツ」と名付けることに。ここで初めて、フリスキーの名のついたクルマがリリースされたのです。

 なお、市販バージョンのフリスキースポーツは、コスト面からガルウィングドアが見送られ、一般的なものに変更されています。

 ただし、ヴィニャーレによる生産は引き続き行われたので、マイクロカー市場ではスタイリッシュであると大いにウケたということです。

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