この記事をまとめると
■倒産の危機に直面した自動車メーカーがある
■他社と資本提携を結ぶことで倒産を回避したメーカーもあった
■海外メーカーの場合、M&Aによって経営体質を塗り替えるケースもある
倒産の危機から巻き返した自動車メーカーたち
自動車メーカーの歴史を辿ると、いわゆる経営危機に直面し、そこから復活したケースが少なくない。
たとえば、日産の場合、昨今話題となっているルノー(仏)との資本関係となったのが1999年。
その前、1980年代から90年代初頭にかけて、日産はいまではネオクラシックカーとして人気が高い多様なモデルを世に送り出すも、バブル経済の余波やグローバル戦略での滞りなどにより、自社での経営再建が難しい状況に陥った。
ルノーから資本参加を受け入れる前、日産に携わる人たちから直接聞いた話のなかで印象的だったのが「銀座と各工場での、仕事に対する姿勢の温度差」だ。
銀座とは当時、実質的な本社機能があった事業所のことだ。登記簿上の本社は、横浜工場の場所だった。その銀座では、ホワイトカラー意識が強く、マーケティング主導型でのクルマづくりに傾いていたという類の話をいろいろ聞いた。
その反動もあったのだろう。ルノーから派遣されたカルロス・ゴーン氏は積極的に、工場や販売の現場を歩き、日産の一体化を進めた。同時に、工場などの事業所の再編にも大ナタ振るった。
これにより、日産はいわゆるV字回復を遂げることになる。
一方、マツダのケースは日産とは大きく違う印象がある。
1970年代のオイルショックの影響で業績が悪化したあと、まずは住友銀行との関係が深まる。1980年代になると、「オートラマ」や「ユーノス」などの多チャネル化を進めるも、結果的に失策となり、フォード傘下になることを選択せざるを得ない状況となった。
フォード傘下となり、人員整理が進み、筆者の知り合いの多くがマツダを去った。そして再建が進むも、リーマンショックに直面してしまう。
マツダ関係者は最近、「私が入社後、ほぼ10年に一度、会社が厳しい状況に陥ってきた」とマツダ人生を振り返ったほどだ。それが、フォードと別れたあと、「CX-5」を起点とするマツダ第6世代によって、マツダは安定した成長軌道にのり、現在に至ってる。
そのなかで、経営陣と社員が常に一体化しながら、マツダのあるべき姿を追い求めていたように思う。
海外メーカーの場合、M&Aによって抜本的に経営体質を塗り替える場合が少なくない。
社員からのボトムアップというより、投資家の視点での大胆な経営再建の手法をとる。その代表的な事例が旧クライスラーだ。1990年代には当時のダイムラーと協業するなどしたが、リーマンショックの影響で、米連邦破産法第11条(通称:チャプター11)を適用した。これは、日本の民事再生法に近い法律だ。
その後、投資会社などを経て、フィアットとFCAとなり、さらにステランティスへと商法上の企業(ブランド)としての位置付けが変化していった。
自動車産業界はいま、100年に一度の大変革の真っ只中にある。
日系メーカー各社の幹部は常々、「自動車産業の先行きは不透明」という表現を使う。生き残りをかけて、日系メーカー各社のさらなるチャレンジが続く。