この記事をまとめると
■ランボルギーニのベアシャシー「TP400」公開によりスーパーカーにミッドシップ旋風が巻き起こる
■V12ミッドシップモデルとしてランボルギーニ・ミウラとフェラーリ365GT4 BBが投入された
■いずれも当初は約30台の限定販売を予定するも市場の反響がすさまじく通常モデルとして販売された
ランボルギーニとスーパーカーの歴史を変えたベアシャシー
1965年のトリノショーに、ランボルギーニはV型12気筒エンジンを横置きミッドシップしたベアシャシー、「TP400」を出品し、観衆の目を大いに刺激した。それは、これまで高級なグランツーリスモをプロダクトの基本としてきたランボルギーニが、本格的なスーパースポーツの世界へと、そしてあるいはモータースポーツにまで進出するのではないかという想像をかき立てるものにほかならなかったからだ。
直接のライバルといえるフェラーリは、ロードカーではまだミッドシップモデルを完成しておらず、フロントエンジンの365GTB/4(デイトナ)がフラッグシップといった状態。ミッドシップ化を直接的にアピールしたランボルギーニの動きが、フェラーリに大きな焦りを生み出したことは当然だろう。
だが、ランボルギーニには、実際この「TP400」をどのようなモデルとして完成させるかは、トリノショーの時点では一切のプランはなかった。ベアシャシーを見た多くのカロッツェリアは、フェルッチオ・ランボルギーニにボディのデザインと製作を請け負うことをリクエストするが、フェルッチオはそのほとんどに興味を示さなかった。最終的にこの時期に前後してマルッチェロ・ガンディーニをチーフスタイリストとして迎えた、カロッツェリア・ベルトーネを唯一の例外として。
当時ランボルギーニでチーフエンジニアの職にあったジャン・パオロ・ダラーラ、そして彼をサポートしたパオロ・スタンツァーニをインタビューして、ともに同じ答えが得られたのは、「フェルッチオはTP400から生み出されたミウラに一切の興味を持たなかった」という事実だった。フェルッチオは、それはせいぜい30台程度の限定車として売れればよいと考え、事実、最初の販売戦略会議では、ベルトーネとともにミウラは30台の限定車とすることが決定されたという。
だが、その美しくスパルタンなミウラの人気は市場では絶大で、結局ファーストモデルの「P400ミウラ」は、1967年から1969年までに274台を生産。続く「P400ミウラS」、「P400ミウラSV」の人気とともに、ランボルギーニを一気に世界のメジャーブランドへと発展させる原動力となったのだ。