WEB CARTOP | 独自の企画と情報でクルマを斬る自動車メディア

え? 「DB」って人の名前だったの!? クルマ好きの憧れアストンマーティン「DBシリーズ」の歴史 (1/2ページ)

え? 「DB」って人の名前だったの!? クルマ好きの憧れアストンマーティン「DBシリーズ」の歴史

この記事をまとめると

■アストンマーティン「DB」の新たなモデルとしてDB12がデビューした

■1947年にアストンマーティンを買収した実業家デビッド・ブラウンのイニシャルから「DB」と名付けられた

■今回はDBシリーズの歴史を振り返る

DB12誕生を機に「DB」シリーズを振り返る

 イギリスのアストンマーティンは、伝統のDBシリーズの血統を受け継ぐ新型GT、「DB12」を現地時間の5月24日に発表。それはDBシリーズの歴史のみならず、アストンマーティンのGTが将来あるべき姿を再定義したモデルとして今後、大いに注目される存在となっていくだろう。

 そしてここでは、そのDBシリーズの歴史を振り返るというのが編集部からの依頼なわけだが、最初にお断りしておくとその始まりからDB12に至るまでの時間は長い。なにしろそれは、DBが意味するところであるデビッド・ブラウンという実業家が、第二次世界大戦後にアストンマーティンを買収。さらにはベントレーの創設者たるウォルター・オーウェン・ベントレーを擁するラゴンダ社も手に入れた1940年代の半ばにまで話を戻さねばならないからだ。

 デビッド・ブラウン傘下で誕生した最初のモデルは、シンプルに「2リッター・スポーツ」と呼ばれ、1948年から1950年までの間にわずか15台が生産されたすぎなかったが、1949年には早くもブラウンは新型車によるル・マン24時間レースの参戦計画を発表。そのために製作されたのが3台の「DB2」で、そのためにかつての2リッター・スポーツは「DB1」という新たな車名を得るに至ったのである。

 その1949年のル・マン24時間での好成績を受け、1950年にはロードモデルのDB2の生産が開始される。そしてDB2は、高性能なスポーツカーに飢えていたカスタマーの心を大いに刺激し、その後も4シーター仕様やオープン仕様、そしてエンジンの強化などが図られていったのだ。

 ちなみに現在はアストンマーティンのクラシック部門であるワークスなどが使用するニューポート・パグネルの工場は、1950年代終盤というからまさにこの頃から、メインの工場として使われてきたということになる。

 続く「DB3」は最初からコンペティションカーとして開発されたモデルだった。シャシーはDB2のそれから大幅にデザインを変更したラダーフレームとなり、サスペンションやブレーキ、2.6リッターの直列6気筒エンジンなどを採用してレースへと参戦したものの結果は振るわなかった。

 そこで1953年に投入されたのが、さらに高性能で軽量な仕様となる「DB3S」。こちらは1953年から1956年にかけて15回の優勝という結果を残している。

 このDB3Sの後継車となったコンペティションカーが、「DB R1」、「DB R2」、「DB R3」といったモデルたち。

 それらはいずれも大活躍を見せ、とくにDB R1はイギリス車として初めて世界スポーツカー選手権を獲得している。

画像ギャラリー

WRITERS

モバイルバージョンを終了