この記事をまとめると
■現在はドメスティックブランドとなっているランチアはかつてモータースポーツで名を馳せた
■とりわけWRC(世界ラリー選手権)での活躍は多くの人が知るところとなっている
■ランチアのWRCでの栄光の数々をマシンとともに振り返る
ラリー界を席巻したランチアのワークスマシン
先日、EVコンセプトカーのPu+Ra(プーラ)HPEを発表したことで、久々にその存在感を世界にアピールしたランチア。現在のランチアは、親会社のフィアットがそうであるように、ステランティスという巨大なグループ企業の一角を担うブランドとされているが、2020年代中にはプロダクションモデルの全車をEV化するなど、じつに積極的な新型車の開発計画を設定している。
そのランチアといえば、やはり多くの人の記憶に残るのは、かつてのモータースポーツ・シーンにおける活躍だろう。とりわけランチアが圧倒的な強さを見せたのはWRC(世界ラリー選手権)でのことで、それは実際の販売にも大きな影響を与えたことは間違いのないところ。ここでは簡単にランチアのラリーヒストリーを振り返ってみる。
ランチアのモータースポーツ活動は、じつは第二次世界大戦前から始まっており、戦後はアウレリアシリーズに加わった高性能仕様のB20が、1954年のモンテカルロラリーや1958年のアクロポリスラリーを制覇するなど、そのスポーツ性の高さを見事に証明していた。
それに前後してランチアからはフラミニアやフラビアといった、一気に近代化を進めたモデルが誕生するが、それに続いて1963年に発売されたのが、ランチアがラリー界に本格的に進出するきっかけとなったフルビアだった。
その端正で美しいコンパクトなボディは、もちろんフラビアのそれよりも軽快なイメージを持つもので、メカニズムの多くもフラビアのそれから受け継いだものだった。大きな違いはフロントに搭載されるエンジンが、フラビアの水平対向4気筒から新開発の狭角V型4気筒に変化していたこと。斜め45度に傾けて搭載された、この1.1リッターエンジンの最高出力は58馬力だったが、1965年にはツインキャブレター版が登場し、その数字は71馬力に向上。ラリーでお馴染みのあのクーペボディが誕生したのもこのときだ。
ラリーフィールドで勝利を収めるために1969年に製作されたクーペHFには、さらに1.6リッターの排気量から115馬力を発揮するV4エンジンが搭載され、1972年にはついにランチアにWRCのメイクスタイトルをもたらした。
だが、WRCでの活躍は宣伝効果こそあれ、実際にコストパフォーマンスに優れないランチア車にカスタマーの視線を向けるには、やや魅力に乏しかった。ランチアはこのフルビアの生産を終了するのに前後してフィアットグループに吸収されるが、フィアットは逆に彼らのラリー活動にさらなる自由度を与えてくれたのである。
ランチアが選択したのは、既存のプロダクションモデルをベースとしたラリーカーを製作するのではなく、最初からラリーに使用することのみを考えた、パーパス・ビルド・マシンを生み出すことだった。当時、ランチアがホモロゲーションを計画していたのは、年間に400台の生産を必要とするグループ4で、生産が開始されるまではプロトタイプクラスなどで実戦テストを実施。
1973年に正式にストラトスの名を掲げて発売が開始されたそれは、3710mmの全長に対して全幅は1750mm、ホイールベースは2179mmという、ほかにたとえる例がないほどに極端な縦横比を持つものだった。
ミッドにはディーノ246GTと共通の(実際にはそのチューニングは異なるが)、2.4リッターV型6気筒エンジンが190馬力の最高出力で搭載され、5速MTもそのレシオはクロス化されている。
ストラトスの強さはまさに圧倒的だった。ランチアは1974年、1975年、1976年のメイクス・タイトルを連覇するという偉業を達成したのだ。