1980年代のWRCに再びランチアの時代が訪れた
だが、ランチアにはここで思わぬライバルが現れる。それはラリーの軸足をストラトスから131アバルトへと移したいという考えを持つ親会社のフィアットで、結局ランチアは1976年シーズンを最後にWRCでのワークス活動から撤退。新たな戦いの場としてスポーツカーレースに進出することになる。
ここにランチアが投じたグループ5やグループC、あるいはグループ6のマシン達も、ランチアのファンにはいまでも強く記憶に残るモデルだろう。
そのランチアが、再びWRCの世界に帰ってきたのは1982年のこと。この年からWRCの主役は年間生産台数の義務が200台というグループBに変わり、それがランチアには有利に働くだろうという考えからの決定だった。
実際に誕生したマシンは037ラリー。すでにアウディを始めライバルの多くは4WDの駆動方式を採用したマシンを投じていた時代に、あえてRWDの037ラリーを開発した背景には、これまでの経験と素直な操縦性の実現が考えられたからだと当時は説明されていた。
そしてその言葉どおり、037ラリーは1983年に見事にWRCのメイクス・タイトルを獲得するに至ったのだ。
037ラリーで、まさにRWD時代の最後の戦いを見せていたランチアは、その裏でもちろん次世代の4WDマシンの開発を進めていた。
1984年に発表されたデルタS4がそれである。そのボディシルエットこそ、市販型のデルタに近いものの、実際にこのS4がそれに共通するものはなく、ミッドにはコンペティション仕様では500馬力にも迫るという1.76リッターの直列4気筒エンジンに、ターボとスーパーチャージャーという両過給システムを組み合わせたエンジンが搭載された。
デルタS4は1985年にいくつかのラリーに出場するが、たび重なるアクシデントなどで当時のFISAは、1987年からWRCを年間生産台数で5000台をクリアすることが必要とされるグループAで戦うことを決定する。
デルタS4の時代はここに終結し、ランチアはここから、デルタHF 4WDをスタートに、HFインテグラ―レなど、数々のエボリューションモデルへと進化を続けていくことになる。
ラリーフィールドにおけるランチアの活躍、そしてそこで成し得た偉業は、永遠にモータースポーツ、そしてランチアやイタリア車のファンの間では語り継がれるものなのだろう。