この記事をまとめると
■1970年代半ばのスーパーカーブームでは、その主役はカウンタックや512BBだった
■同じランボルギーニでもV8を搭載していたウラッコの人気はイマイチ
■日本車にも凄いクルマはあったがスーパーカー扱いされなかった
主役の陰には必ず脇役が存在していた
日本で最初にスーパーカーのブームが訪れたのは1970年代半ばのこと。1974年に週刊少年ジャンプ誌で池沢さとし氏(当時)による劇画、「サーキットの狼」が爆発的なヒット作となり、それに呼応するかのようにスーパーカーは続々と日本に上陸を始めるようになったのだ。それから約3年間、1977年の夏頃をピークとして、そのスーパーカーによるブームは日本を熱狂させることになる。
そもそもスーパーカーの始まりにあるのは何なのか。スーパーカーの条件にさまざまな意見があるのと同様に、スーパーカーの誕生にもいくつかの説がある。ある者はV型12気筒エンジンを横置きミッドシップしたあのランボルギーニ・ミウラをスーパーカーの祖と定義し、またある者はフェラーリの250GTOから、レースカーの250LMとロードカーの275GTBの両モデルが派生したときこそがスーパーカー誕生の瞬間なのだと主張する。
この2つの説に共通しているのは、スーパーカーとはあくまでもロードカーとして生を受け、性能と美、あるいは価格や希少性を競ったモデルであるということ。
だが、狂乱の渦中にあった1970年代の日本でのスーパーカーブームでは、最後には海外ブランドのモデルであればそれは何でもスーパーカーの仲間入りを果たすような状況にさえあったし、真に高性能なスポーツカーやGTカーであっても、人気の出ないモデルもあった。今回はそれらのモデルをもう一度振り返ってみる。選考基準はあくまでも個人の記憶。異論や反論もあるだろうが、それはお許し願いたい。
当時、ブームの主役を担っていたブランドは、フェラーリ、ランボルギーニ、ポルシェ、ロータスといったところだった。スーパーカーショーが開催されるとなると、まずはこのあたりのブランドから人気モデルを取り揃える。
フェラーリなら12気筒モデルの365GT4BBや、その後継車となった512BB。ランボルギーニなら同じく12気筒のカウンタックLP400や一連のミウラシリーズ、そしてミウラからモディファイされたイオタレプリカなどが花形である。
一方、8気筒のウラッコはデザイン的にも華やかさがなかったのだろうか、残念ながら人気は高くはなかった。