ミケロッティによる英国車らしからぬ流麗なスタイリングも魅力
しかし、ここで問題がひとつありました。クルマはそこそこ売れていたにもかかわらず、トライアンフは経営危機を迎えていて、1961年にはレイランド・モーターズ(後のブリティッシュ・レイランド:BMC)の傘下になったのです。ボム(Bomb:爆弾)と呼ばれた弟分プロトタイプはそのどさくさにまぎれて倉庫で惰眠をむさぼるのかと思いきや、レイランドの重役だったスタンリー・マークランド氏が目ざとく発見すると、すぐさま量産のゴーサインが出されたのでした。
既述のとおり、ヘラルドのシャシーとSUツインキャブ付1147cc直列4気筒エンジンを流用(買収されても工場は存続されていました)したボムは、晴れてスピットファイア4の名称(4は4気筒の意味)が付けられ、1962年のアールズコートでお披露目。もっとも、コスト増を避けた最低限のパッケージだったようで、プラスティック製ステアリングや、ペラペラのゴム製フロアマットなど、お世辞にもゴージャスとは言い難いデビュー。
※画像はトライアンフ・スピットファイア1500のエンジン
ですが、ミケロッティが作ったボディラインをはじめ、フェンダーからガバっと開くボンネット、あるいはライバルたるオースチン・ヒーレーよりも余裕のある室内など、ヒットを予感させるディテールがあちこちにちりばめられていたことも確か。
車両重量が721kgと軽量ですから、63馬力/5750rpmは十分だったようで、0-60mph:16.5秒、最高速148km/hと当時としても良好なパフォーマンスを発揮。それでいて、価格は729ポンドと戦略的な値付けがされたために、目論見どおり幅広い層に売れたとのこと。ちなみに、すでに一流スポーツカーブランドと認知されていたロータスのエランは688kg、106馬力/5500rpmと高スペックながら、お値段が1499ポンドと倍以上の開きがありました。
そして、早くも1965年にはマイナーチェンジが施され、スピットファイアMk.IIへとステップアップ。といっても、馬力が63馬力から65馬力に上がったくらいしか差異はありません。ただし、レースシーンでの活躍は目覚ましく、1964年のツール・ド・フランスでアルピーヌA110を抑えてクラス優勝したことを皮切りに、1965年になるとアメリカのセブリング12時間ではクラス2位と3位、ル・マン24時間では110馬力をたたき出すまでにチューンアップされたマシンでクラス優勝までゲットしているのです。
もちろん、こうしたレース車両はクローズドルーフ仕様でしたが、だいたいのシルエットは市販車と似たような形だったため、各国のセールスが喜ぶまいことか! 結局、スピットファイアはMk.IVまでモデルチェンジが続き、最終モデルの1500(71馬力まで出力が向上!)、1966年に登場したGT(直6エンジンを搭載し、こちらもMk.IIIまで続くヒット)といった派生モデルまで作られ、累計30万台以上というセールスを記録したのでした。直接的なライバルと目されていたMG-Bもまた累計50万台以上というセールスですから、当時のブリティッシュスポーツカー恐るべし、といったところでしょうか。
なお、スピットファイアの中古車はタマ数こそ少ないものの国内でも流通しています。うれしいことにほとんどのパーツがネット経由で手に入り、しかも比較的安価だそうですから、欲しい方には夢が広がりそうですね! スピットファイアの気まぐれでチャーミングな魅力は、これから先もずっと色あせることはなさそうです。