スーパーカー少年が盛り上がっていた逸話は眉唾! ランボルギーニの都市伝説のウソホント (2/2ページ)

スーパーカーのなかでもとくに逸話が多いランボルギーニ

 そして記念すべきファーストモデルとして、1963年のトリノショーで発表されたのが、350GTVだった。

 注目のV型12気筒エンジンは、かつてフェラーリで250GTOなどの開発にあたったジョット・ビッザリーニによるものだったが、カロッツェリア・サルジョットのフランコ・スカリオーネによるボディを組み合わせた、一見完成車とも見えた350GTV(このショーでランボルギーニは、もう一台ベアシャシーのみの350GTVを展示している)には、じつはV型12気筒エンジンは搭載されていなかった。エンジンルームにそれは収まらなかったため、ショーの期間途中でフェルッチオが出品を中止するまで、ボンネットは一度も開かれなかったという。

 さらにこのエンジンの、レーシングエンジンの如きピーキーな特性や、ボディデザインもフェルッチオの趣味に合わなかったのだろう。350GTVはそのまま発売されることなく、翌1964年に350GTとして再デビューを果たす。

 当時の直接のライバルはフェラーリの330GT、マセラティのミストラル、あるいはセブリングというところだったが、ランボルギーニの350GTはDOHCのV型12気筒エンジンを採用したり、あるいは後輪にも独立懸架サスペンションを与えたりと、その商品力は非常に高かった。

 ほかにもさまざまな逸話が残るランボルギーニの歴史。実際にフェルッチオは、1971年には株式の51%をスイス人投資家のジョルジュ・アンリ・ロゼッティに、また1974年には残りの49%もロゼッティの友人であるレイネ・レイマーに譲り、完全にアウトモビリ・ランボルギーニの経営から撤退してしまう。

 つまり、日本でスーパーカーブームが最高潮を迎えた頃、アウトモビリ・ランボルギーニはすでにフェルッチオのものではなくなっており、最終的に1978年に倒産。イタリア政府の管理下に置かれることとなっていたのだ。

 そこからの復活劇は、また機会があれば詳しく解説することにしよう。


山崎元裕 YAMAZAKI MOTOHIRO

AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員 /WCOTY(世界カーオブザイヤー)選考委員/ボッシュ・CDR(クラッシュ・データー・リトリーバル)

愛車
フォルクスワーゲン・ポロ
趣味
突然思いついて出かける「乗り鉄」
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