この記事をまとめると
■1990年代にマツダがプレミアムブランドとして展開しようとしていたのが「アマティ」だった
■ユーノス800とユーノス1000をアマティ800、アマティ1000として販売する予定だった
■バブル経済が弾けてマツダの業績が悪化すると1992年10月にアマティ構想は中止された
マツダ第二のブランドとなるはずだった
マツダの「アマティ」。そう聞いて「さて、そんなモデルはあったかな?」と思われる人が少なくないのではないだろうか。なかには「まあ、1980年代から90年代にかけて、マツダはユーノスとか、オートザムとか、日本国内では確か5チャンネル制を敷いていろいろなモデルがあったから、その中にもしかするとアマティもいたのかもしれないけど……」と思う人もいるかもしれない。
アマティとは、モデル名ではない。もし実現していれば、トヨタ「レクサス」、日産「インフィニティ」、ホンダ「アキュラ」のようになっていたはずの、マツダのプレミアムブランドのことである。
アマティについて、正確にお伝えするために、ここから先は「マツダ百年史 正史編」から引用する。
まずは、アマティとは何を意味するのか?
ラテン語の「アマタス(愛すること)」を語源とすること。また、17世紀にイタリアで活躍したバイオリン製作者のニコロ・アマティの名前に由来する。クラシックで優雅な匠の心を表現するもの、として発案された。
マツダがアマティ構想を発表したのは1991年8月。販売先は、アメリカとカナダとして、マツダに次ぐ第二のブランドとして、営業開始は1994年春とした。販売網については、1994年春の開業当初は全米25の大都市で合計約50店とし、年間販売台数計画は2万台でスタート。初期導入モデルとしては、国内のユーノス店で発売予定だった「ユーノス800」と「ユーノス1000」を、それぞれ「アマティ800」と「アマティ1000」として導入。生産は、山口県の防府工場を増設してあたるとしていた。
1992年には、アマティのシンボルマークも公表し、61の販売店と仮契約を締結するまでになっていた。
このように、アマティは当時のマツダにとって、遠い将来の夢物語ではなく、目の前にある新規事業として明確なロードマップを描いた重要戦略だったのだ。
では、なぜそこまでして、アマティを推進しようとしたのか?
この点については、1980年代前半の北米市場は、ドル高の影響などにより、欧州系プレミアムブランドの市場価格が高騰しており、その隙間に日系メーカーが参入可能な価格帯が生まれていたという背景がある。
その市場に最初に着手したのがアキュラだ。アキュラの成功を受けて、筆者の知る限りトヨタはかなり慎重に事業計画を練った上でレクサスを誕生させた。
マツダには当時、「929」(日本名ルーチェ)があったが、北米での販売台数は伸びておらず、プレミアムブランドの必要性を強く感じていた時期だった。
※画像はマツダ・ルーチェ
しかし……、1990年代に入ってマツダの業績が急速に悪化するなか、マツダはアマティ事業計画を中止せざるを得なかった。
アマティは、幻となってしまったのだ。