この記事をまとめると
■日産がEVのヘリテイジと位置付けるのが「たま電気自動車」
■東京電気自動車(のちのプリンス自動車工業)に開発され1947年に誕生した
■「たま電気自動車」のスペックを振り返る
一充電走行距離は65km!
日産自動車が、電気自動車(EV)のヘリテイジ(遺産)と位置付けるのが、たま電気自動車だ。1947年(昭和22年)に誕生した。
第二次世界大戦前に創業した立川飛行機が、終戦後、東京電気自動車(のちのプリンス自動車工業)として開発、販売したEVである。戦後まもなくは、ガソリンが配給制となり入手が難しく、より手に入れやすかった電力を使うEVに将来の道を探ったのである。
鉛酸のバッテリーを床下に搭載し、直流モーターを駆動して、最高時速35km、一充電走行距離65kmであった。しかし、政府が主催した性能試験では、一充電で96km走ったとも伝えられる。そして1951年頃まで、タクシーで使われ重宝されたという。
全長が約3m、全幅は約1.2mという車体寸法は、現在の軽自動車規格よりなお小さい。車両重量は、バッテリーを車載するため、それでも1.1トンはあった。
日本EVクラブでは、30年近くエンジン車をEVに改造するコンバートを行ってきた。一般に個人の手に入るバッテリーは、永年にわたり鉛酸のいわゆる補器用12ボルトバッテリーであったので、一充電での走行距離は数十からせいぜい100kmに至るかどうかであった。また、一般に手に入れられるモーターは、直流であった。したがって、たま電気自動車が65~96km走れたという性能は、鉛酸バッテリーを使ったEVとして最高水準といえる領域であったと考えられる。
のちのプリンス自動車工業は、航空機技術を背景として高性能で高度な技術を特徴とした自動車メーカーであり、たま電気自動車の時代も、当時の電気技術の粋を活かしたつくりであっただろう。EVの常として、日産がたま電気自動車を改めて動かそうとしたとき、バッテリーの充電を行えば、ほぼそのまま走り出せたと伝え聞く。エンジン車であれば、エンジン本体のオーバーホールや、キャブレターという気化器、ディストリビューター(点火プラグに電気を分配する装置)の働きなど、いくつもの整備を行わなければならなかったのではないか。
たま電気自動車で感心したのは、床下にバッテリーを配置するという今日のEVと同じ考えであるだけでなく、バッテリーへの充電に際しては、引き出しのように手前にバッテリーケースを移動させ、電極にコードをつないで充電できるようにしていた仕組みだ。場合によっては、バッテリー交換もできただろう。
今日も、充電時間を惜しむ声のなかに、バッテリー交換を構想する人もいる。EVの原点が、まさに76年前のたま電気自動車にあったといっても過言ではないのではないか。