この記事をまとめると
■いすゞの初代ピアッツァを振り返る
■117クーペの後継モデル的な立ち位置でデビューしている
■10年ほどの期間販売されており、当時から根強いファンが多かった
いまでも根強いファンが多し! いすゞのホットハッチを振り返る
いまではバスやトラックのスペシャリストとして、我々の生活を支えるクルマを多く送り出しているいすゞ。しかし、過去には乗用車を生産していた過去もあり、その乗用車の多くはいまでも熱心なファンを抱えている。そんないすゞの名車のなかから、今回は1981年に登場した初代ピアッツァを振り返ってみたい。
初代ピアッツァはクーペタイプの乗用車であり、実質的な117クーペの後継車種として登場したモデル。その源流は1979年3月のジュネーブモーターショーにコンセプトカーとして展示された「アッソ・ディ・フィオーリ」だった。
このモデルは、イタリアのインダストリアルデザイナーであるジョルジェット・ジウジアーロが手がけたもので、先進的なスタイルとサテライトスイッチを多用した近未来的なインテリアが特徴だった。
ちなみに車名は「クラブのエース(A)」を意味するイタリア語で、ジウジアーロが手掛けたアッソシリーズの第3弾となっていた(第1弾は1973年の「アッソ・ディ・ピッケ(アウディ)」、第2弾は1976年の「アッソ・ディ・クアードリ(BMW)」だった)。
このコンセプトモデルは海外でも高い評価を集め、1979年11月に開催された第23回東京モーターショーにも「いすゞ X」という名前で展示がなされたが、周囲の評価は“あくまでコンセプトカー”というものだったようだ。
というのもデザインがあまりにも先進的すぎるため、このままのスタイルで市販化するのは現実的ではないという判断が大多数を占めていたからである。
しかし、その大方の予想を裏切って、1981年6月に登場したピアッツァは、ほぼコンセプトカーのスタイルを踏襲してリリースされた。ただ、じつはボディサイズは大きく異なっており、コンセプトカーに比べ全長で115ミリ、全幅で35ミリ、全高で22ミリ大型化されているほか、当時は認可が下りていなかったドアミラーがフェンダーミラーに置き換えられている(のちにドアミラーの認可が下りて正式にドアミラー化がなされた)。
内装もコンセプトカーのものとほぼ共通の意匠を引き継いでおり、とくにメーターパネルの両脇に備えられたサテライトスイッチはいま見ても斬新なもの。
通常、多くの車両でコラムに備わるワイパーやウインカーのレバーは存在せず、それらのスイッチもすべてこのサテライトスイッチ群に組み込まれていたほか、エアコンの操作やハザード、オーバードライブのスイッチまでもが集約されており、初見ですべてを把握するのは不可能と言えるほどだった。
このように内外装ともに個性的なスタイルをまとったピアッツァではあったが、大人4人がしっかり座ることができる室内空間や、ターボモデルも用意して高い動力性能を誇るなど、クルマとしての基本性能も高いレベルにあり、結局1991年までの10年にも渡って販売されてきた名車であることは揺るぎない事実と言えるだろう。