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「J」はランボルギーニにとって特別な文字! 伝説の「J=イオタ」から続くホットすぎるモデルたち (2/2ページ)

「J」はランボルギーニにとって特別な文字! 伝説の「J=イオタ」から続くホットすぎるモデルたち

この記事をまとめると

■ボブ・ウォレスによってたった1台が製作されたランボルギーニ・イオタ

■イオタは売却後に事故で失われ、ランボルギーニでは伝説のクルマとなっている

■イオタを意味する「J」の文字が与えられたランボルギーニは特別なモデルとなっている

アルファベットの「J」を意味する「イオタ」

 ランボルギーニのカスタマーやファンにとって、「J」=「イオタ」の称号は、特別な響きを持つものであり、またその歴史を振り返ればミステリアスな存在ともいえるのだろう。そもそもランボルギーニでイオタと呼ばれるモデルが正式に製作された記録はなく、それは同社のテストドライバーであり、またメカニックだったボブ・ウォレスが、就業時間が終わった後に、自分自身の趣味として何人かのスタッフの助けを得ながら製作したモデルにすぎなかった。

 のちに1970年に販売されてしまうこのモデルに与えられたイオタの名は、その製作が始まった1969年当時のプロトタイプスポーツカーレースの車両規定「J項」を意味するものだった。ウォレスはそれに沿ったモデルを製作することでランボルギーニにもモータースポーツ参戦の道が開けるのではないかと期待するのと同時に、当時生産されていたミウラのさらなる進化を探っていたのだった。

 だが、ミラノに在住するあるカスタマーの手に渡ってから、何人かの手を経たイオタの生涯は短かった。1971年4月、ミラノ近郊のブレシアでまだ開通前だった高速道路でテストドライブを行っていたイオタは空中へと舞い上がり横転。車体は全焼して修理不能な状況に陥ってしまったのだ。その話題は瞬く間にランボルギーニのカスタマーの耳に届き、その多くはイオタのレプリカを製作することを依頼した。そしてここから全貌はいまだ闇に包まれているイオタレプリカが生み出されていくことになるのだ。

 今回のテーマは、このイオタレプリカそのものではなく、イオタ(J)という称号が、その後どれだけランボルギーニによって大切に扱われてきたかという話だ。

 実際にイオタの名が久々に表舞台に復活するのは1990年代を迎えてからになる。日本のJGTCシリーズに参戦するために、ランボルギーニが、ランボルギーニ・エンジニアリング社との技術協力のもとに製作した3台の「ディアブロ・イオタ」がそれで、最初はディアブロ・コルサと呼ばれていたこれらのモデルは、最初の2台は純粋なコンペティションモデルとして、そして最後の1台はロードモデルとして製作されていたのが特徴だった。

 1号車は当初の計画どおり、1995年のJGTCに参戦を果たす。メカニズム的には吸気効率を最適化させるためにエアインテーク長を可変させるマルチ・モード・コントロールの採用や、潤滑方式のドライサンプ化。翌1996年シーズンにはプッシュロッド方式の新型サスペンションも採用されるに至った。

 一方ル・マン24時間参戦を目指していた2号車は、残念ながらその計画がキャンセルされてしまう。ロードモデルとして製作された3号車は、その基本的なメカニズムの構成は、ほかのコンペティション仕様に共通。

 インテリアはロードユースを意識して、スパルタンななかにも機能性と快適性を意識したものに仕上げられていた。スパルコ製のレーシングバケットシートを左右に、そしてアルカンターラによる内装の演出。ルーフ上のエアインテークやボンネットのアウトレットなど、ロードバージョンとはいえ、その姿はイオタの名に相応しいコンペティティブなものだ。

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