この記事をまとめると
■日本のモータリゼーションは軽自動車によって育ってきた
■その代表といえるのが1958年に登場したスバル360
■今回は1960年代に売られていた軽自動車を振り返る
軽自動車という規格が日本の自動車産業を育てた
日本のモータリゼーションは軽自動車によって育ってきたというのは事実です。実際、新車販売の4割弱は軽自動車となっていますし、保有台数全体でみても軽自動車のシェアは40%となっています。
ちなみに、2022年3月末時点での保有台数(ナンバーがついた状態で世の中に存在している台数)は軽自動車が3130万8530台、登録車は4699万5718台となっています。
現在、軽自動車を生産しているメーカーは、N-BOXが大ヒットし続けているホンダをはじめ、スペシャリストであるダイハツやスズキ、そして日産との協業による軽自動車の生産を担っている三菱自動車の4社だけとなっています。
しかし、かつてはもっと多くのメーカーがオリジナルの軽自動車を開発・生産していました。むしろ軽自動車という規格が日本の自動車産業を育てていったといっても過言ではありません。
その代表といえるのが、1958年に富士重工業が初めての量産四輪車として生み出した「スバル360」でしょう。
1955年に通商産業省(現在の経済産業省)の提唱した「国民車構想」を受けたモデルといわれることもあるスバル360ですが、厳密にいうと国民車構想は“最高時速100km以上、定員4人、エンジン排気量350~500cc、燃費30km/L以上、販売価格25万円以下”といった内容で軽自動車に限った話ではありませんでした。
とはいえ、軽自動車のサイズで4人を収めるパッケージを実現していたことで「まさに国民車の姿」とスバル360は評価されたと伝聞されています。もっとも、国民車構想自体はトヨタを中心とした自工会によって否定されていましたので、スバル360が国民車を目指して作られたわけではありません。
当時の軽自動車規格は、全長3m全幅1.3mで、エンジン排気量は360cc以下でした。この小さな規格で4人の座る場所を確保するというのは至難の業と考えられていましたが、なぜスバル360が見事なパッケージングを実現できたのかといえば、大きくふたつの要因が挙げられます。
ひとつは「モノコックボディ」、もうひとつが「リヤエンジンレイアウト」の採用です。当時、富士重工業という社名だった同社のルーツは、中島飛行機という航空機メーカーにあります。そのノウハウを活かしたモノコックボディは軽量かつ頑丈で、小さなボディに大きな室内を与えることに成功したわけです。モノコックボディの教科書のような丸っこいシルエットは、また独自のキュートなルックスの実現にも貢献しています。
リヤエンジンで後輪を駆動するレイアウトであればプロペラシャフトも不要ですし、床下にマフラーを通すスペースを確保する必要もありません。それはそのままキャビンの広さにつながります。ただ可愛いだけでなくスバル360の設計は理にかなったものでした。
同時期、3輪トラックを中心にした商用車メーカーとして存在感を示していたのがマツダです。同社が初めて乗用車に参入するときに選んだのも、また軽自動車というカテゴリーでした。
1960年に誕生したマツダ初の乗用車は「R360クーペ」。国産車として初めてクーペという言葉を車名につけたモデルとしても知られています。軽自動車のサイズを感じさせない流麗なボディのリヤに空冷V型2気筒エンジンを搭載するというメカニズムも、オリジナリティを感じさせるものでした。
そしてR360クーペといえば、白いボディに赤いルーフの2トーンカラーというイメージも強いところですが、そのボディカラーが設定されたのは1961年。最高速度は90km/hと喧伝されましたが、当時としては驚異的なパフォーマンスにはいかにも空気抵抗が小さそうなクーペボディが寄与しているとユーザーは期待したものです。