管理者が誰であっても使いやすい道路整備を望む
それに対し、都道府県や市町村の道路を含め、利用者にとっての道路は、整備や管理をする所管の区別なく、1本の道である。クルマに限らず、人が暮らしや仕事に利用する道である以上、連続した視点での整備が必要ではないだろうか。
欧州は、陸続きの国境を持つためもあるだろうが、先進国ではいずれの道も同じような感触でクルマを運転することができる。もちろん、道幅や舗装の違いはあっても、なぜかクルマで移動しやすくできている。
それに比べ、日本の道路は誰のための道かという意図があまり感じられない。それは単にクルマ優先とか歩行者優先という区別だけではなく、それぞれが安全に利用できるかどうかといった視点に欠ける気がする。道路管理者の境目から、状況が一変する場面に出くわすことがある。
かつて、江戸時代末期に海外から来日した人々は、東海道など主要幹線道路の整備に感心したとの記録がある。ただし、馬車の時代がなかった日本は、石畳などを含め舗装は十分でなかった。それでも、移動した距離を知るための一里塚や、荷駄を乗り換える伝馬といった制度が整備され、連続した道に整備されていた。
そこにクルマが入ってきたとき、混乱が生じたのだろう。欧米と競うための国道は整備されたが、人とクルマが互いに利用しやすいという視点は希薄だったのではないか。人の移動の自由より、事故を起こさないための規制が優先されたことが、駐車することを含め、使いにくい道路という実情をいまだ拭いきれずにいる気がする。それは、人の移動を制限した江戸時代の思考がまだ拭いきれていないからかもしれない。