この記事をまとめると
■富士スピードウェイホテルの1・2階フロアに富士モータースポーツミュージアムがオープン
■テーマ別に1890年代から続くモータースポーツの歴史の解説と車両の展示をしている
■モータースポーツに特化した博物館が日本に誕生したことは自動車史に残るエポックとなるはずだ
黎明期を紹介したゾーン1から広がるモータースポーツの歴史絵巻
全国のモータースポーツファンが、3年ぶりの開催となった鈴鹿のF1日本GPに注目していた10月7日、富士スピードウェイに隣接したエリアに、富士スピードウェイホテルが開業。その1階/2階フロアには、富士モータースポーツミュージアムもオープンしています。その名の通り、国内では初となるモータースポーツに特化した富士モータースポーツミュージアムには、モータースポーツの歴史と現状、そして未来が詰まっていました。
ホテルと共用のメインエントランスから館内に入ると、1~2階の吹き抜けを突っ切るように3階のホテルフロントに繋がるエスカレーターが目に入りますが、ミュージアムの受付は館内に入ってすぐの左手にあり、長いエスカレーターの左手にミュージアムの展示エリアが広がっています。
展示エリアは1階と2階合わせて10カ所のゾーンに分けられていて、たとえば観覧ルートで最初に登場するゾーン1は、『動力の転換期から始まったモータースポーツ黎明期』をテーマに、馬車に代わる新しい移動手段として蒸気や電気とともに内燃機関が競い合う場として自動車レースが誕生した、として1894年に開催された世界初のモータースポーツイベントとされているパリ~ルーアン・トライアルの勝者となったパナール・エ・ルバッソールの1899年式タイプB2や、1908年に行われたニューヨーク~パリ間レースに勝ったトーマスフライヤーの後継となる1909年式モデルLなどが展示されています。
また、ヘンリー・フォードがフォード・モーター・カンパニーを設立するためにオリジナルのレーシングカー999を製作して、1903年に時速91.37マイル(約147km/h)を出し、そのことで名を売り会社設立の資金を調達したエピソードは有名ですが、そのレーシングカー999のレプリカも展示されていました。
19世紀終盤から20世紀初頭のモータースポーツ黎明期となると、我が国のモータリゼーションは1904年に山羽式蒸気自動車が完成していますが、残念ながら本格的なモータースポーツとなると1963年、新装なった鈴鹿サーキットでの第1回日本グランプリまで待たねばなりません。でもじつは、それ以前にトヨタは市販乗用車をベースとしたレースカーを製作していました。それが1階展示ホールの奥、エレベーターの左脇に展示されていたトヨペット・レーサー(レプリカ)です。
レースへの参戦を通じて国内自動車産業の成長に繋げたい、というトヨタの創業者、豊田喜一郎の想いから、トヨタ自動車工業から分社独立したトヨタ自動車販売が主導する格好で製作されたもので、1949年に誕生したトヨペットSD型乗用車のラダーフレームとエンジンを使用し、そのローリングシャシーに販社のサービス部が独自に製作したボディを架装していました。計画では6台が製作される予定でしたが、大阪トヨタ自動車が手がけた1号車と、愛知トヨタ自動車が手がけた2号車の2台のみが完成していました。
トヨタの若手技術者を中心にサポート役のベテラン技術者数名を加えた選抜メンバーは、2020年から復元プロジェクトをスタートさせて復元作業を進め、富士モータースポーツミュージアムのオープンに間に合わせてお披露目に漕ぎ着けています。
このゾーンでは、1958年にオーストラリア大陸一周ラリーとして知られるモービルガス・トライアルに参戦しAクラスで4位入賞を果たしたダットサン210型セダンの“桜号”や、1961年の西ドイツGPで優勝したホンダの2輪ロードレーサー、RC162と1965年のメキシコGPで優勝したホンダのF1GPマシン、RA272など、黎明期に海外で活躍した国産車やバイクが並べられていました。
さらにその奥に進むと、日産R382とトヨタ7、国内を代表する2台のレーシングマシンが並べられていました。青いボディのR382は1969年の日本GPで高橋国光/都平健二組がトップを快走したものの、トラブルで後退し10位でチェッカーを受けた個体で、一方の白いボディに太く青いストライプが走るトヨタ7は、やはり1969年のワールドチャレンジカップ富士200マイル、通称“日本Can-Am”で川合稔のドライブで優勝した個体です。
それぞれが歴史を振り返るうえで欠かせない1台ですが、こうして2ショットに収まるのはとても貴重な1カットです。