問題は抱えつつもセールス的には大成功
1997年のジュネーブ・サロンにおけるAクラスの市販版デビューは、それはそれは眩ゆいばかりの出来事だった。メルセデス・ベンツという謹厳実直で質実剛健、空手部と陸上部の顧問を兼任する哲学の教授みたいなブランドが、いきなりカジュアルな陽キャとして春のスイスに忽然と現れたのだから。それは憧れブランドのほうから潜在的顧客のほうにわざわざ来てくれたという、当時としては事件だった。全長3575×全幅1719×全高1575mm(本国発表値)というサイズと車格は、欧州Bセグメントに相当した。それでいてモノスペースに近い、ハッチバックより相対的に室内の広々したパッケージングも衝撃だった。いわば少し前に登場していたVクラスと並んでそれは、VWのT4やゴルフ/ポロ辺りへ、いっぺんにケンカを売っているような話でもあった。
ところが最善の瞬間のあとには、無に帰するかという出来事が待っていた。スウェーデンの自動車雑誌によるダイナミック・テストにて、5名フル乗車で75kgの荷を積んだ試乗車のAクラスはエルク・テスト、つまり走行中に脇から飛び出してきたヘラ鹿をスラロームで緊急回避する際に、たった60km/h走行にも関わらずフラついて片輪側が宙に浮いて横転してしまったのだ。この結果が大々的に報道されたため、Aクラスは一時「横転ベンツ」というありがたくないニックネームをつけられ、メルセデスは報道から約1カ月後に原因究明と対策のため、生産を一時中止した。
横転の原因は、接地ジオメトリーに対してルーフ高をはじめ高重心に過ぎる、というものだった。メルセデスの金科玉条である安全性をBセグ・スモール(Cセグはコンパクトと呼ばれる)で実現するにあたって、Aクラスはエンジンを60度近く前傾させて搭載し、トランスミッションを含むパワートレインが前面衝突時にキャビンの床下に潜り込む構造だった。それこそ小さなボディでも生存空間を確保するために採用した二重フロア設計が、アダとなったというのだ。ホントは床下にバッテリーを積んで電気自動車化される予定だったから、すると重心高も解決されるはずだったとか、いずれ設計ミスを指摘する声が多かった。生産中止中にメルセデスの採った対策はASR(アクセレレーション・スキッド・コントロール)、つまり空転しそうな車輪にブレーキをかけたり、姿勢を乱しそうな際にアクセル開度を絞るという、今日で言うESPに繋がる装置を備えることだった。
物理的限界を電子制御で抑え込むという多少の無理矢理感があったものの、デフレ・ジャパン真っ盛りのなか、エントリーグレードなら250万円アンダーという車両価格は衝撃的だったのは事実。当時はまだエレガンスとアヴァンギャルドというテイスト区分が始まる前で、Cクラスでもエントリーグレードは400万円弱だった。感覚的には3分の2の価格でメルセデスに乗れる! という話だった。Aクラスは、あの頃の社会的課題やメルセデスの将来を託されたスモールカーという戦略そのものを背負っていたからこそ、記憶に残る野心的な1台だったのだ。